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「1人でいたくないのに、1人でいたい」壮絶な家庭環境だった大東駿介を救った意外な芸人

てれびのスキマライター。テレビっ子
映画『37セカンズ』で「第32回東京国際映画祭」に参加した大東駿介(写真:2019 TIFF/アフロ)

6月4日発売の『女性セブン』(2020年6月18日号)で「別居婚」が報じられた大東駿介。現在は家族5人で同居しているというが、当初、別居していた理由を彼は以下のように語っている。

「ぼく自身、幼少期に家庭が崩壊していたこともあり、そのときには家庭を持つという選択肢が持てなかったんです」

自分は家族という言葉にどうしても拒否反応があって、誰かが家でぼくの帰りを待っているというのがダメだったんです。家庭が崩壊する様を身をもって知っているので、あるものがなくなっていく絶望を子供に味わわせるくらいなら、初めからつくりたくなかったんです」

出典:「NEWSポストセブン」2020年6月4日

大東駿介は、「家族」という言葉に拒否反応を示すほどの、壮絶な家庭環境で育った。それは具体的にどのようなものだったのか、過去のテレビ番組での発言から探ってみたい。

大東が「複雑な家庭環境で育った」ということをテレビで発言したのは、2019年7月9日に放送された『チマタの噺』(テレビ東京)がおそらく初めてだろう。

「早い段階で家族と離れて生活していた」「中学の頃から一人暮らしをしていました」とサラッと話しが、司会の笑福亭鶴瓶も「すごいやん」と驚きつつも、そのことについて深く聞くことはしなかった。

それを受けてなのか、映画『37セカンズ』のプロモーションの一貫で出演した、同じく鶴瓶司会のTBS『A-Studio』(2019年11月29日放送)や関西テレビ『おかべろ』(フジテレビでは2020年3月3日放送)では、彼の過酷だった過去が詳しく語られた。

両親が蒸発

まず、小学3年生の頃、父親がいなくなる

タクシー運転手だった父とは、生活のサイクルが合わなかったため、もともとあまり会うことがなかった。

それにしても会わんなあと。よくよく考えたら誕生日にしか会わなかったんですよ。誕生日の時も家じゃなくて、お父さんのタクシーに呼ばれてタクシーの中でプレゼントをもらう。小学3年生の時にうちのおかんが井戸端会議みたいなのをしてて、通りすがり様に聞こえたのが「離婚した」って。

出典:『おかべろ』

そうして大東は、自分の父親がいなくなったのを知る。

さらに、中学の頃、母親も蒸発する。

母は自営業でクリーニング店を営んでいた。1人で切り盛りしていたため、シャッターを半分閉めるのが「ちょっと出かけています」という合図だったが、中学1年の頃から、そうした状態が段々多くなっていった。夜になってようやく帰ってくる日ができ、翌日まで帰って来ないこともあった。さらに階段にお金だけ置いて、2日帰ってこない、3日帰らない、1週間……と段々と家を空けるスパンが長くなり、遂には、いなくなってしまった。中学2年生の頃だった。

そこから極貧の一人暮らしが始まった。

クリーニング屋のレジにある金でしのいでいたが、やがてそれもなくなっていく。かき集めた1円玉で10円の駄菓子を買って食べていた。

主食は駄菓子の「どんどん焼き」。サラダ味の「じゃがりこ」にお湯をかけてサラダ代わりにした。

それを買う際も、1円玉をたくさん出して買うのが恥ずかしいため、1個1個、別々のお店に行った。

可哀想なヤツと思われたくなかったんです。

出典:『おかべろ』

だから誰にも相談できなかった。

やがて、学校にも行かなくなり、引きこもり状態になった。

小5の時に拾ってきたウサギだけが話し相手だった。

友達でしたね。昔のこと思い出したらウサギと喋ってるんですね。可愛がってたというより、めちゃくちゃ可愛がられてた。

出典:『おかべろ』

夜になると、「自分は社会に出てはいけないんじゃないかっていう気持ちになって」怖くなった。

その時は、ホントに世の中に怒りしかなくて、1回、近所のおっちゃんがドアをバンって開けたんですよ。1階に大きな鏡があったんですけど、鏡に映った自分に対して「殺すぞ!」って叫んだんですって。全然覚えてないですけど。(略)1人でいたくないのに、1人でいたいと思ってたから、助けてくれる人にも牙むいてた

出典:『A-Studio』

ライフラインも止まり、ウサギのフンまみれのベッドで横になりながら、漠然と俳優になりたいと思っていた。俳優なら「自分じゃなく生きれるから」だ。そうやって「別の人間」になることでしか、自分の生きる道はないと思ったのだ。

フンまみれのベッドで天井に向かって手を伸ばすわけですよ。未来の自分を想像して。10年後くらいの自分がそこにいて、テレビ局のスタジオで手を伸ばしてるんですよ。その手と手がくっつく想像をしてたんです。

出典:『A-Studio』

大東を救ったもの

そんな日々を救ってくれたのが友人たちだった。中学の頃、いつも5人組でつるんでいた。5人とも人に馴染めなくて口グセのように「俺たちダメやな」と言っていたため、いつの間にか「ダメ」というグループ名になった。

引きこもって学校に行ってなかった時に、毎日「大東!」って呼びに来てくれるんですよ。ある日、それでも出なかったら、「ドン!」って音がして1階のドアぶち破って入ってきたんです。それで救われましたね

出典:『A-Studio』

それ以降、大東の家は、5人組のたまり場のようになった。

その5人のうちの1人が、小学校の頃から親友だったお笑いコンビ「金属バット」の小林圭輔だったのだ。

やがて、近所に住んでいた「厄介事引受人」のような親戚に引き取られ、実の子供のように育てられた。

18歳で上京し、俳優になるという夢を叶えた大東に父親が見つかったという連絡があったのは27~28歳の頃だ。けれど、「捨てられた」という感覚に近い感情があったため「会うもんか」と意地を張ってしまった。

30歳になる手前くらいに「会ってもいいかな」という気持ちが生まれました。「なんでこんなに親父を拒否してたんだろう」って

出典:「マイナビウーマン」2017年9月16日 

だが、「会う」と決心した直前、父親は亡くなっていた。

すごく不思議だと思うのは、亡くなった後、今の方が父親像がはっきりしているんです。小学3年生くらいまでの父親の記憶は、といってもそんなに一緒にいなかったので、あまり記憶はないんですけど。亡くなってから『どんなおやじやったんやろう』って、人生を掘り返して知っていく作業の中で、どんどん父親像がはっきりしてくる。人の感覚って、不思議だと思います。そばにいるかどうかでなく、自分はどう感じるか。それが生きていく上で大事だと思いました。

出典:朝日新聞デジタル「&M」(2020年1月8日)

そうした経験を経て大東駿介は「自己肯定」ができるようになった。

20代前半の頃は自分の中にある負のエネルギーをガソリンにして回してたところがある。「俺なんて……」とか嫌なエネルギーの使い方をしてたんですけど、30歳手前くらいになってからやっぱり人を笑顔にするとか物事のいいところを見つけに行く、そういうエネルギーのほうがよっぽど難しくて力強いってことに気づいて考え方が大きく変わりましたね。

出典:『A-Studio』

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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