「なぜかまだ自信があるんです」あの夏から6年。千葉貴央(木更津総合→桐蔭横浜大)がアメリカ挑戦
心外な批判
あの日以来、公式戦のマウンドに立ったのは高校3年夏の1イニング、大学4年秋の3イニングのみだ。それでも千葉貴央にまだ「野球を辞める」という選択肢はない。それどころか、アメリカ挑戦という大きな挑戦に打って出る。
2013年の夏、2年生だった千葉は木更津総合をエースとして甲子園出場に導いた。1回戦の上田西戦で9回138球を投げて5失点完投勝利で初戦突破に貢献。だが2回戦の西脇工戦で先発のマウンドに上がった千葉の様子がおかしい。投球練習、そして先頭打者に対しても緩い山なりのボールしか投げることができない。明らかに故障を抱えている投球で、先頭打者こそ空振り三振に抑えたが、打者1人で降板した。
その痛々しい姿に批判の声が五島卓道監督に集まった。これに最も心を痛めたのは千葉本人や家族だ。母・昌子(あきこ)さんのもとに「監督を訴えるべきだ」という声が入ったり、学校に祖父と名乗る偽の人物から「うちの孫をどうしてくれるんだ」という苦情の電話もあった。
だが、千葉が痛みと戦いながら投げていたのは小学生時代からだった。そしてこの夏の前後もその原因は解明されなかった。どの病院に行っても「なんの問題もない」と診断され「むしろこんな綺麗な肘は稀」と言われることもあった。また2回戦の登板にあたっては本人にも家族にも五島監督ら指導陣が何度も確認をした末での判断だった。また五島監督の「選手に気づかせる」指導は今でも千葉の中で糧となっているし、母も「人間的に大きく成長させてくれた」と大きな感謝をしている。だからこそ、もう1度完全復活を果たして、そうした批判の声を覆したい気持ちも千葉の中には眠っている。
ベンチ外での気づき
高校卒業とともに引退も考えたが、高校の早い段階から千葉を見続けていた桐蔭横浜大の齊藤博久監督が「一緒に日本一になろう」と声をかけてくれた。千葉も「誘っていただきましたし、“このままで終わりたくない。周りの人に自分が投げている姿を見せたい”という思いがありました」と入学を決めた。
入学後は齊藤監督が様々な病院や治療院を紹介してくれた。それでも原因は不明な時期が長く続いたが、ついに3年の春に右肘の尺骨神経に異常があると分かり移行手術を受けた。
そして3年の秋が終わり新チームになると主将に任命された。「千葉が何かを言った時に“お前、それ違うだろ”と反発する部員は絶対にいないと思う。そういうカリスマ性がある」と、齊藤監督にひたむきな姿勢による説得力を買われた。さらに実戦にも復帰。練習試合ながら入学後初となる登板を果たした。
しかし最終学年は主将としても投手としても苦しいシーズンとなった。桐蔭横浜大は2006年に神奈川大学野球連盟に加盟した新興校ながら1期生が4年生となった2009年から春秋いずれかのリーグ戦は優勝してきており、創部7年目の2012年秋には全国制覇も果たしていた。だが昨年は春が4位、秋は2位で優勝を逃した。
また千葉自身も「早く仕上げようとしすぎて、リーグ戦になると春も秋もコンディションが悪くなってしまいました」と公式戦復帰は遠かった。それでも主将として毎試合ベンチ入りし、これまでの経験をもとにチームの力になろうと声かけなどベンチワークで奮闘を続けた。
「高校でも1年春からずっとベンチに入っていたので、大学に入って初めてスタンドで応援することになったんです。その時に“スタンドも一緒に戦っているんだ”とあらためて感じました。その経験をしてから入ったベンチだったので、今までとは気持ちの入り方が全然違いました」
嬉しさと悔しさと
神奈川大学野球秋季リーグの最終カード・関東学院大との2回戦で千葉はついに公式戦のマウンドに立った。前日の1回戦で先勝したチームは既に明治神宮大会出場のかかる関東代表決定戦への進出条件となる2位を確定させていた。齊藤監督から「明日の先発にどうだ」と問われ「行きます」と即答できるコンディションでは無かったが、当日朝にいつもより早くグラウンドに出て状態を確認。自信は無かったが「行っても大丈夫」という思いから先発することを決めた。
「“球遅っ”て感じでスピードガンは見られませんでした」と苦笑いするようにストレートの球速は140キロ出るか出ないか。初回にストレート主体の配球でいきなり2点を失ったが、変化球主体に変えて2回3回を抑え、予定通りこの回で降板した。投球術や対応力の高さをあらためて感じさせたが、結果にはまるで満足してはいない。チームが勝って「ホッとしました」。それでも「やっぱりすごく楽しかったんです。久々に血が騒ぎました」と振り返り笑みがこぼれた。
続く関東代表決定戦で千葉の登板は無くチームも敗退。春秋ともに全国大会に進むことはできなかった。
「齊藤監督には感謝しかありません。高校の時にあんな状態で投げられるか分からない僕に“治して一緒に日本一になろうよ”と声をかけてくださいました。入ってからもいろんな病院を紹介してくださいましたし、1度奥さまも交えて3人でお祓いと食事にも連れて行ってもらったこともありました。本当にそういう環境を作って信じて待ってもらって、絶対結果で恩返しすると決めたのにそれができずに悔しかったです」
今回のインビューで最も感情が昂ぶっていたように見えたのはこの時だった。
アメリカ挑戦の理由
進路はずっと野球を継続することを前提に進めてきた。「練習参加した時に選手がみんな誇りを持っていて、どうしても入りたいと思いました」という社会人強豪もあったが公式戦のマウンドさえ遠かった千葉に採用の声はかからなかった。
クラブチームやまだ実績の少ない社会人チームで現役を続ける道も選択できたが、あえて千葉はアメリカ挑戦を選んだ。
「ひとことで言うと凄くワクワクする、そういう本能に従うとアメリカでした」と千葉は語る。英語はまったく話せず猛勉強中、いつ痛みが再発してもおかしくない。それでも3月上旬にアメリカへ渡り、インディアンス傘下のチームと対戦するトライアウトに登板。MLBや独立リーグ数球団の関係者が見守る中で投球する。
「野球の可能性に賭けてみたいというか・・・最初は言葉も通じないだろうしし海外行くのも初めて。でも、野球という共通の価値観があれば、言葉や文化が違っても人は通じ合えるような野球のそのものの可能性っていうんですかね・・・」と少し曖昧ながらそうした挑戦理由も話したのち、きっぱりとした口調でこう語った。
「あとはやっぱり“自分に今ある根拠のない自信を1度ぶちのめして欲しい”という思いがあるんです」
このインタビューで千葉は「自信」という言葉を何度か口にした。あの夏以降の実績を考えれば、それが不釣り合いな言葉だというのは千葉が一番分かっている。それでも「なぜか」と前置きして「まだ自信があるんです」と話した。これには齊藤監督も頷く。
「“もし自分がまともなら”と彼の素質は彼自身が一番分かっているんでしょう。謙虚なんだけど自信は持っている。だから折れずに続けてこられたのでしょう」
息子の言動を母・昌子さんも「穏やかでシャイだけど、コツコツと諦めず誠実にというのは主人(父・勝直さん)そっくり。度胸は私にそっくりですね」と笑う。一方でアメリカ挑戦を伝えられた際に「アメリカで“全然通用しない”と感じたら引退するかもしれない」と息子が初めて“引退”の2文字を口にしただけに強い覚悟を感じ取っているという。
それでも千葉は前向きだ。「実は不安で仕方ないです」と言うが表情は笑っている。
「今、ひとりでジムや公園で練習していて思うんです。今まで恵まれていたなって。でも、野球はどこでも練習できるし、どこでも成長できるんだなって実感しています。孤独ですけどイイ時間ですよ」
まだまだ野球が楽しくて仕方がない。投げられない時期がとてつもなく長かったからこそ、投げる喜びを誰よりも知っているのかもしれない。
「誰かのために、この人のためにとずっと野球をやってきました。そのことに後悔はしていません。でもちょっと、この1年くらいは自分の人生をかけて“自分のため”だけに野球をやりたいと思います」
何も背負うことなく「誰も知らない、何も分からない場所」で心の底から野球を楽しんできてほしい。
文・写真=高木遊