「差別とは無関係」といいながら差別するひとたち

(写真:長田洋平/アフロ)

民進党の蓮舫代表(7月27日に辞任を表明)が「二重国籍でないことを証明する」ため、戸籍の写しなどを公表したことが波紋を広げています。この問題についてはネットを中心に膨大な議論がありますが、話がややこしくなるのは、「国会議員が二重国籍なのは違法だ」と思っているひとが(ものすごく)たくさんいることです。すでに指摘されているように、公職選挙法では国会議員が日本国籍であることを定めているだけで、二重国籍を排除する規定はありません。

2007年の参院選挙では、国民新党がアルベルト・フジモリ元ペルー大統領を比例代表候補として擁立していますが、フジモリ氏が日本とペルーの二重国籍であることはまったく問題にされませんでした。蓮舫代表のケースでは、国籍についての過去の発言に矛盾があることは確かですが、司法の判断の前に経歴詐称と決めつけ、有権者によって選ばれた議員の資格を一方的に否認するのは民主国家としては明らかに行きすぎです。

戸籍が議論を呼ぶのは、国民を「個人」ではなく「家」単位で管理しようとする、世界では日本にしかない特殊な制度だからです。これは、「普遍的な人権をもつ自由な個人が市民社会をつくりあげる」という近代の理念と相容れません。そのうえ戸籍は、過去において「家柄」や「血筋」を判別する目的で広く使われてきました。

1980年代までは、日本の大手企業は新卒採用にあたって戸籍を入手し、被差別部落出身者や在日韓国・朝鮮人の応募者を排除するのを当然としてきました。銀行などが興信所を使って内定者の身辺調査をしていることも公然の秘密でした。――いまではどちらも、発覚すれば社長が引責辞任するくらいではすまないでしょう。

そのため近年では、行政は第三者への戸籍の公開をきびしく制限し、実務上もできるだけ使わないようにしています。実生活で戸籍が必要なのはパスポートを所得するときだけ、というひとも多いでしょう。戸籍の公開を強要することへの反発には、戸籍と差別が密接に結びついてきた暗い過去があるのです。

蓮舫代表を批判するひとたちは「この問題は差別とは無関係」と繰り返しますが、関連するネット記事への大量のコメントを見れば、「中国」や「韓国」へのヘイト発言を繰り返しているひとたちが戸籍の公開を求めていることは明らかですから、まったく説得力がありません。「自分は差別主義者だ」と公言して差別をする人間などいません。いじめと同様、差別にも常に「(差別する側にとっての)正当な理由」があります。

戦前の日本は一視同仁を建前にしていましたが、「朝鮮戸籍」や「台湾戸籍」をつくって植民地を管理していました。戸籍とは、「純粋な日本人」と「不純な日本人」を区別し、日本国という“家”に「汚れた血」を入れないための制度だったのです。保守派のひとたちが戸籍について触れたがらないのは、こうした不都合な歴史を暴かれたくないからでしょう。

しかしより深刻な問題は、この話を蒸し返したのが、安倍政権を“独裁”と批判し、“リベラル”を標榜する民進党自身だということです。都議選の歴史的敗北をめぐる党内抗争の道具に使ったのでしょうが、リベラルな有権者に与える効果は嫌悪感だけです。「政権交代」を実現したあとはなにひとついいことのなかったこの政党の歴史的な役割も、これで終わったようです。

参考:遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史―民族・血統・日本人』(明石書店)

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