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日本の民事裁判の7割は本人訴訟で争われている

橘玲作家

新刊『臆病者のための裁判入門』(文春新書)の「はじめに」をアップします。

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最初に断っておくが、「裁判入門」といっても、本書で扱うのは刑事事件ではなく民事訴訟で、それも数万円から数十万円といったきわめて少額の話だ。そのうえ私は法律に関してはまったくの素人で、専門教育を受けたこともない。そんな私がなぜ、司法制度についての本を書くのか?

裁判員裁判が始まったこともあり、ほとんどのひとが「裁判」と聞くと刑事事件を思い浮かべるだろう。だが刑事裁判は、平凡で堅実な社会生活を送っているひとにとって身近なものではない。

年間の刑事事件は110万件前後だが、これは略式事件などを含めた数字で、裁判官や裁判員の前で検察官と被告弁護人が主張をたたかわせる訴訟事件はそのうち8万件程度だ(簡易裁判を除く)。それに対して民事訴訟は、地方裁判所で年間75万件、簡易裁判所で120万件。損害賠償など主として財産に関する紛争を扱う民事の通常訴訟だけを見ても地裁で約20万件、簡裁で約55万件、これに行政訴訟や人事(離婚)訴訟、少額訴訟、民事調停や特定調停などを加えると、年間で100万件ちかい紛争が裁判所を舞台に争われている。あなたが刑事事件の被告になることはおそらくないだろうが、誰もが人生のうちで一度や二度、民事紛争の当事者になったとしてもおかしくはないのだ。

民事訴訟というと、法廷ドラマに出てくるように、代理人(弁護士)が原告側と被告側に分かれて激論を交わす場面を想像するにちがいない。だが、次のようなデータを知っているだろうか?

2011(平成23)年度の地裁の民事事件(通常訴訟)21万2490件のうち、原告と被告の両者に弁護士がついた事件は全体の30%しかなかった。残りの7割は、原告か被告のいずれかしか弁護士がついていないか、あるいは原告・被告ともに弁護士のいない事件だ。

地方裁判所における本人訴訟の割合
地方裁判所における本人訴訟の割合

日本の民事訴訟の特徴は本人訴訟の割合が高いことで、地裁の事件のうち22.6%が原告・被告ともに本人訴訟、高等裁判所でも7.9%が双方ともに本人訴訟で、原告・被告のいずれにも弁護士がついた事件は高裁でも6割にとどまっている。

簡易裁判所ではこうした傾向がさらに顕著で、通常訴訟55万798件のうち当事者双方ともに弁護士・司法書士などの代理人がついたのはわずか2.8%しかなく、全体の97%超で原告・被告いずれかが本人訴訟だ。双方ともに本人訴訟のケースも32万件超と半数を超える。

簡易裁判における本人訴訟の割合
簡易裁判における本人訴訟の割合

少額訴訟は簡易裁判のなかでも請求額が60万円以下のものだが、じつに99%超が本人訴訟だ。総数1万4097件のうち、双方に代理人がついたものはわずか57件(0.4%)にすぎない。

少額訴訟における簡易裁判の割合
少額訴訟における簡易裁判の割合

ほとんど知られていないが、少額の紛争を中心に、日本の民事訴訟の多くは弁護士などの代理人を立てない本人訴訟で争われているのだ。

司法のブラックホール

少額の民事紛争が本人訴訟で争われるのは、弁護士が扱わない(相手にしない)からだ。ほとんどの法律家は、請求額がきわめて些少で割に合わない少額の民事事件の実態をほとんど知らない。泡沫の裁判には誰も関心を持たず、書籍はもちろんインターネットを検索しても解説や体験談の類はほとんど見つからない(本人訴訟のハウツー本が何冊か出ているが、これも少額訴訟については概略が述べられているだけだ)。

私がこの「司法制度のブラックホール」に気づいたのは、2009年の秋、ちょっとした偶然から知人と大手損害保険会社とのトラブルに巻き込まれたからだ。詳細は本文に譲るが、それから2年半にわたって私はこの国の司法の迷宮をさまようことになった。

この私的な体験を本にしようと考えるようになったのは、次のようないくつかの要素が重なったことによる。

第一に、私は紛争の当事者ではないから、客観的な記述が可能だということ。被告(損害保険会社)に恨みもなければ、訴訟の結果に利害関係があるわけでもない。

第二に、たんなる支援者ではなく、原告の「代理人」になったこと。その結果、民事調停から東京高裁での審理まで、裁判のすべての過程にかかわることができた。

第三に、これがわずか12万円の保険金をめぐる少額の民事紛争だということ。医療過誤訴訟のような重い話でもなければ、相続争いのようなどろどろした怨念もない。

第四に、それにもかかわらず、司法の判断を求める正当な理由があること。私たちが“訴訟ストーカー”の類でないことは、東京高裁が地裁の判決に疑問を持ち、3時間に及ぶ証人尋問を行なったことからも明らかだろう。

最後に、裁判の構図がきわめて明快なこと。ほとんどの民事訴訟はどっちもどっちの罵り合いだが、この事件に関しては原告にまったく非がないことは明らかで、それは被告の損害保険会社も当初から認めている。

それなのになぜ、当事者同士で解決ができず、裁判へと泥沼化していくのか。すべての関係者が穏便な決着を望んでいるにもかかわらず、当事者に大きな負担をかけてまで、多額の税金が投入された司法の場にささいなトラブルを持ち込まざるを得なくなることに、この国の少額民事紛争の問題が集約されている。

福島第一原発事故の損害賠償請求問題

本書をこの時期に世に問うのは、福島第一原発事故の損害賠償請求がこれから本格化するからでもある。現在は被災者と東京電力が、原子力損害賠償紛争解決センターの仲介で賠償額を話し合っているが、交渉が決裂すれば裁判所の判断を仰ぐしかない。

深刻な風評被害を考えれば、福島県(あるいは東北各県)のすべてのひとが原発事故でなんらかの経済的な損害を被っているともいえる。そればかりか、放射能汚染とはなんの関係もない九州や沖縄まで外国人観光客に敬遠され、野菜や茶葉などの農産物は「日本産」というだけで輸入を拒否されるなど、被害は日本全国に広がっている。

紛争解決センターは、原発事故による賠償総件数が100万件を大きく上回り、そのうち紛争性のあるものは10万件を超えると予想する。日本の司法インフラではこれだけの民事紛争をとうてい処理することができず、今後、大きな混乱は避けられないだろう。金額の多寡にかかわらず正当な賠償が支払われるべきだと誰もが考えるだろうが、混乱のなかで、少額の賠償請求は支援の手から漏れてしまうかもしれない。

損害保険会社に交渉を打ち切られたとき、私たちに残された選択肢は、本人訴訟か、それとも泣き寝入りか、だった。今後、東京電力との交渉で同じ立場に立たされるひとたちが出てくるだろうが、そんなときには私たちのささやかな体験がきっと役に立つだろう。

ところで、ここまでの説明で不思議に思ったひともいるにちがいない。弁護士資格を持たない私が、原告の「代理人」になるのはおかしいのではないか?

ところが実際に、私は「代理人(補佐人)」として、簡易裁判所では法廷内に入り、地裁と高裁でも和解の場に同席した。そこでの稀少な体験が、この本を書くに至ったいちばんの理由だ。

いったいなぜ、そんなことが可能になったのか。

それは、原告が外国人(オーストラリア人)だったからだ。

作家

作家。1959年生まれ。2002年、国際金融小説『マネーロンダリング』でデビュー。最新刊は『言ってはいけない』。

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