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移籍後、初めて遠藤保仁と対峙するガンバ大阪。今だからこそ振り返りたい「ヤット語録」とその偉大さとは

下薗昌記記者/通訳者/ブラジルサッカー専門家
ガンバ大阪の栄光の影には常に、遠藤保仁という稀代の司令塔がいた(写真:アフロスポーツ)

 ガンバ大阪がこれまで手にしてきたタイトルは9つ。指揮官やエースの顔ぶれは時代によって異なりますが、9つの栄冠で一つだけ共通する事柄があります。遠藤保仁選手という稀代の名手が全てに関わっていたことです。彼を超えるレジェンドはこの先にガンバ大阪に現れない、と筆者が言い切っても反発するサポーターは恐らくいないのではないでしょうか。

 瞬間最大風速的に遠藤選手を上回る活躍を見せる選手は、これから登場するかもしれません。ただ、ガンバ大阪で20年間、主力として稼働し、キャプテンとして三冠に貢献。そして、歴代最多のJリーグベストイレブン選出(最優秀選手1回)。J1最多出場記録を更新中。日本代表でも歴代最多のAマッチ152試合出場。

 記録にも記憶にも残る名手中の名手が遠藤選手です。

 3月12日に行われるJ1リーグのジュビロ磐田戦で、ガンバ大阪は移籍後初めて、遠藤選手と対戦します。「ヤットさん」と誰もが慕う42歳が敵として挑んでくる光景はガンバ大阪の選手、サポーター、そして筆者にとっても「ジュビロのヤット」を改めて実感する場になりそうですが、長年の取材を通じて、印象に残る「ヤット語録」とともに、改めて遠藤選手の偉大さを再認識して頂ければと思うのです。

「決勝でも楽しくやるというガンバのスタイルを崩す必要はない。それで負けたら自分たちの力が足りなかっただけだから」

 クラブ史上最も重要だったタイトルと言っても過言でない2008年のAFCアジアチャンピオンズリーグ(ACL)の初優勝。準決勝で宿敵、浦和レッズを下し、アジアの頂点に王手を掛けたアデレード・ユナイテッドとの決勝戦ファーストレグの直前の取材で、遠藤選手はこともなくこう言い切りました。

 西野朗監督(以降肩書きは全て当時)が率いたあの頃のガンバ大阪は「2点取られたら、3点取り返す」を地で行く豪快なスタイルを誇っていましたが、それこそがまさに「ガンバのスタイル」でした。

 筆者がガンバ大阪を追いかけていたのは強いからではなく、攻撃なスタイルにこだわり、時に理想に殉じる散り際の美を持っていたからこそ。筆者がかつて移住したブラジルには「フッテボウ・アルテ(芸術サッカー)」という言葉がありますが、魅せるサッカーにこだわっていた西野監督と遠藤選手の精神性が、筆者のサッカー観に合致していたのです。

 それ故、悲願の初優勝を目前にしても、目先の結果よりスタイルにこだわろうとする遠藤選手のポリシーに、甚く心を揺さぶられたのを今でもはっきりと覚えています。

 もっとも、クラブ史上初めてJ2リーグ降格を余儀なくされた後、遠藤選手は「楽しくサッカーをして、見ている方にも楽しんでもらいながら勝つのが一番ですけど、どんな内容でも勝ち点3を取ることが大事だから」と勝利へのこだわりも口に。その割り切りが、2014年の昇格即三冠という偉業につながっていくのですが。

「僕も何もしていないし、城後くんも何もしていないので10人対10人でやっていたような感じになった。城後くんの攻撃力がもったいないなと思いながらやっていましたけどね」

 ガンバ大阪がクラブ史上初のJ2リーグを戦った2013年、アビスパ福岡に1対0で勝利した後のコメントです。アビスパ福岡は当時のエースで背番号10の城後寿選手が遠藤選手を徹底的にマンマーク。しかし遠藤選手はその動きに対して「ポジションチェンジをしながら、でもそれでもずっと付いてきたので、あまり気にせずにやっていました」と振り返りましたが、試合中に頭の中でこんな計算式を立てていたのです。

 「ガンバ大阪−遠藤>アビスパ福岡−城後」

 城後選手のマンマークにあえて抗うことなく、残る仲間に試合を託す割り切りぶり。遠藤選手が消されても、そこにエースの城後選手が労力を注ぐのであれば、残された10人の力量はガンバ大阪が上回る、と遠藤選手は判断した訳です。実際、ガンバ大阪はロチャ選手の得点で1対0で勝ち切りました。かつて西野監督は「ヤットの思考回路は他の選手と違う」と称したことがありましたが、その言葉を象徴するような90分間でした。

「今のサッカーは自分の理想じゃないですよ。監督と僕の理想は違っているのでね」

 長谷川健太監督が率いた2014年、昇格即三冠という偉業を成し遂げたガンバ大阪は、かつての攻撃偏重なスタイルではなく、堅守をベースとした勝負強さを武器としていました。キャプテンとして、そしてボランチとしてチームを支えていた遠藤選手は、J1リーグの優勝が迫っていたある日、あっさりとこう言い切ったことがありました。

 もっとも、監督への造反でもなければ、不満を表したわけでもありません。自身が理想とするサッカーでないにもかかわらず、長谷川監督が求める役割を完璧に遂行するのが遠藤選手のプロフェッショナリズム。長谷川監督はボランチの枠組みを超えたマルチロールぶりを見せる遠藤選手について「ポジション名はヤットでいいんじゃないですか」と笑ったことがありました。日本代表でも歴代最多出場を果たせたのは、それぞれの時代の指揮官の要求を的確にこなしたからに他なりません。

「どれだけ疲れていても、気持ちがあれば体は動くので」

「試合に出られない仲間のためにもプレーしたい」

 冷静沈着で、サッカーに関しては「緊張したことがない」とさえ公言する遠藤選手ですがやはり、鹿児島実業高校サッカー部で鍛え上げられてきたメンタルの強さも超一級品。マイペースさを崩さない一方で、その内面にあるのは根っからの体育会系の熱さでもあります。ACLでは時に海外勢が、ラフプレーを繰り出してくることも珍しくありませんが、味方が削られるなど汚いプレーをされれば、きっちりお返しに行くのも、アジアの舞台で見せる遠藤選手のもう一つの顔でした。

 派手なパフォーマンスを好まない遠藤選手ですが、2016年1月1日の天皇杯優勝後には、去りゆく仲間を思い、粋な計らいを見せたこともありました。既に退団が決まっていた明神智和さん(現ガンバ大阪ユースコーチ)は、浦和レッズと対戦した天皇杯決勝のベンチメンバーに入れませんでしたが、表彰式で天皇杯を掲げる直前、遠藤選手が着込んでいたのは明神さんの背番号17番が刻み込まれた「MYOJIN」のユニフォーム。「それだけの(価値がある)選手ですからね」と長年、ともにチームを支えてきた明神さんへの想いを口に。そして事前の根回しも完璧でした。

 天皇杯という日本最古のカップ戦での授与式だけに、当時の指揮官、長谷川監督と大仁邦彌・日本サッカー協会会長、高円宮妃久子さまには「着てもいいですか」とあらかじめ許可を得ていたことを試合後には明かしてくれました。「いい男ですね。驚きました。普段はなかなか気持ちを出さないヤットなので」と明神さんが感嘆したのも納得です。

 2014年にJリーグ最優秀選手賞を受賞した当時34歳の遠藤選手は言いました。

「サッカーは年齢じゃないというところをこれからも証明し続けたいと思っています」

 その凄さは、コーチとして間近で見てきた片野坂知宏監督も熟知済み。試合前日となる3月11日の囲み取材で、鹿児島実業高校サッカー部の先輩でもある指揮官はこう絶賛しました。「ヤットは長いことチームに貢献して素晴らしい成果をもたらしてくれたレジェンド。ジュビロ磐田に行って、また新たなチャレンジをしてジュビロ磐田を強くしてJ1に昇格させたのは、ヤットの力が非常に大きい」(片野坂監督)。そして、対戦相手としては最も警戒すべき選手でもあるだけに「ヤットのスタイルは継続されているし、また特徴を活かしている。自由にするとクオリティとアイデアを持っているのでセットプレーを含めて警戒したい。やっかいな選手でもあるし、警戒はしなければいけない」。

 サックスブルーの50番として初めて、ガンバ大阪を迎え撃つ遠藤選手。古巣の特徴を知り尽くす42歳が見せる「サッカーは年齢じゃない」プレーが楽しみです。

記者/通訳者/ブラジルサッカー専門家

1971年、大阪市生まれ。大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)でポルトガル語を学ぶ。朝日新聞記者を経て、2002年にブラジルに移住し、永住権を取得。南米各国でワールドカップやコパ・リベルタドーレスなど700試合以上を取材。2005年からはガンバ大阪を追いつつ、ブラジルにも足を運ぶ。著書に「ジャポネス・ガランチードー日系ブラジル人、王国での闘い」(サッカー小僧新書)などがあり、「ラストピース』(KADAKAWA)は2015年のサッカー本大賞で大賞と読者賞。近著は「反骨心――ガンバ大阪の育成哲学――」(三栄書房)。日本テレビではコパ・リベルタドーレスの解説やクラブW杯の取材コーディネートも担当。

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