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日本人が知らない「マリーシア」の真実。マリーシアを超えた狡さ「カチンバ」とは

下薗昌記記者/通訳者/ブラジルサッカー専門家
日本サッカー界の恩人、ジーコ氏によって「マリーシア」という言葉が認知度を得た(写真:青木紘二/アフロスポーツ)

 Jリーグ開幕戦でガンバ大阪のパトリックの退場が物議を醸している。ブラジルのあるメディアは「日本人にマリーシアがないと誰が言った」と報じたが、日本人が知らない「マリーシア」の真実とは。

物議を呼んだJリーグ開幕戦でのパトリックの退場劇

 Jリーグの開幕戦で鹿島アントラーズと対戦したガンバ大阪。1対3で完敗を喫したガンバ大阪にとって痛恨だったのが前半38分に下されたパトリックの退場処分だった。鹿島アントラーズの鈴木優磨ともつれあった際のプレーが報復行為と見なされた。

 判定やVAR(ビデオアシスタントレフェリー)の運用をめぐって物議を醸し、判定を検証するDAZNの番組「Jリーグジャッジリプレイ」でもテーマに掲げられたパトリックの退場劇は、ブラジルの大手メディアでも「Quem disse que japonês não tem malícia?(日本人にマリーシアがないなんて誰が言ったんだ)」との見出しで紹介されていた。

 1試合の出場停止処分を命じたJリーグ規律委員会の判断はこうである。

「日本サッカー協会 競技および競技会における懲罰基準に照らして審議した結果、同選手のボールとは関係のないところで相手競技者を打った行為は、『乱暴な行為』に該当すると判断、1試合の出場停止処分とする」

 当事者であるガンバ大阪の片野坂知宏監督は「メディアのところで色々な記事が出ていますけど、見方によったり捉え方によったり、ガンバのサポーターの方であったり、鹿島のサポーターの方であったりの見解は色々とあると思います。VARも入っている中ではああいうことも起こり得ると思いますし、いくら(判定に)そういうことを言ってもパトリックの退場は変わらない」と極めて冷静に振り返った。

日本で誤解されている「マリーシア」の真実。相手を陥れるプレーに非ず

 この原稿はパトリックの退場処分の是非を振り返るためのものではない。日本人が誤解している「マリーシア」という言葉の真意を伝えるのが狙いである。

 Jリーグが設立された当初、鹿島アントラーズでプレーしたジーコは日本のサッカー発展に貢献した一人であるが、ブラジル代表のレジェンドでもある彼によって日本のサッカー界が知った概念が「マリーシア(malícia)」というポルトガル語。

 英語で言えば「malice」に相当するこの言葉は、直訳すると「悪意」。サッカー界では「抜け目なさ」の意で用いられることが多いマリーシアではあるが、実のところ、ブラジルのサッカー界ではさほどこの言葉が使われるわけではないのである。

 ブラジル在住歴30年を超え、幼少時のネイマールを日本人として初めて取材するなど育成年代からプロチームまで幅広く取材するジャーナリストの大野美夏さんは、筆者も親交ある大先輩でブラジル在住のサッカージャーナリストの第一人者(当然ながらポルトガル語もペラペラだ)だが、大野さんは2017年にサンパウロ通信員として寄稿するスポーツニッポンでのコラム(リンク参照)でこう記している。

「ブラジルで生活していて、『マリーシア』という言葉を日常生活でよく使うわけではない。サッカー用語としても頻繁にこの言葉を使うわけでもない。ずる賢く相手を挑発することよりも、したたかに賢く挑発に乗らないこともマリーシアが必要だ。ブラジルで試合の駆け引きという意味でよく使われるのは、『カチンバ』という言葉だ」

 時間を稼いだり、相手の隙につけ込んだりして、自らが生きるプレーをする選手に対してしばしば用いられるのが「マランドラージェン」。ジーコやドゥンガが日本人に足りないと指摘した「狡猾さ」「したたかさ」に通じる概念である。

 マリーシアやマランドラージェンに共通するのは、ポジティブな意味合いであり、あくまでも相手選手を陥れるようなプレーを意味するものではないのである。

南米サッカーの真骨頂。相手を陥れる狡猾さ「カチンバ」とは

 一方で、貧困家庭から這い上がってきた選手が多いブラジルを含めた南米サッカーでは、時に相手を陥れるしたたかな立ち振る舞いも存在する。

 それが「カチンバ」という概念だ。

 筆者が有するブラジルで刊行された「ポルトガル語のサッカー辞書」と題された一冊にはマリーシアの項目が存在しないが、カチンバの項目を見るとこう説明されている。

 「相手選手をいらつかせるための、試合中における様々なマランドラージェン」

 相手を挑発して、いらつかせたり、退場に追い込んだりするようなしたたかさがカチンバなのである。

 カチンバを得意とする選手をポルトガル語では「カチンベイロ」と称するが南米でブラジルを超えるしたたかさを持っているのはアルゼンチンである。

 1998年のワールドカップ・フランス大会でアルゼンチンと対戦した若き日のデヴィッド・ベッカムはディエゴ・シメオネの狡猾さにまんまとハマって、報復行為で一発退場。アルゼンチン人ならではの試合巧者ぶりが現れたワンプレーだった。

 2005年のコパ・リベルタドーレス大会中、アルゼンチンに取材に向かった筆者は、カチンバの真骨頂と呼ぶべきプレーを目の当たりにしたことがある。

 準々決勝で対戦したバンフィエルドとリーベルプレート戦の一コマだった。リーベルプレートのCBオラシオ・アメリは相手FWのアントニオ・バリホに後方から削られ、ピッチに倒れ込んだ。

 アメリのお尻を軽く叩き、詫びたように見せたバリホだが、その指はアメリのお尻の敏感な部分をあえて何度も刺激(「2005年のリベルタドーレスのカチンバ」と題された下記動画の20秒前後を見ていただければ一目瞭然だ)。当然ながら激昂するアメリだが、主審はアメリにイエローカードを提示するのだ。

 こうしたアルゼンチン勢のしたたかさに、ブラジル勢もコパ・リベルタドーレスや南米予選ではしばしば苦しめられてきたが、挑発行為に乗って敗戦を喫すると、ブラジルメディアで決まって見出しに掲げられるのが「Caiu na catimba(カチンバにハマった)」である。

 相手選手を陥れることが目的ではなく、あくまでも自らが有利に運ぶようにプレーするしたたかさが「マランドラージェン」や「マリーシア」。相手選手を罠にはめるのが「カチンバ」だと考えてもらえばいいだろう。

 南米サッカー界ならではのしたたかさは数多いが、VARの導入によって、カチンバも、もはや過去の遺産になりつつあるのも事実である。

 ブラジル勢とアルゼンチン勢が対戦するコパ・リベルタドーレスは激しさを超えた汚いプレーも珍しくなかったがVARの導入によって、荒れる試合どころか、警告が乱れ飛ぶ試合も減っているのが現実だ。

 昨年11月に行われたコパ・リベルタドーレス決勝ではパルメイラスのFWデイヴェルソンが、勝利を目前にした終了間際、アルゼンチン人主審のネストル・ピターナに背中を軽く叩かれると、相手が主審であることを知りながらファウルを受けたかのように倒れ込み、時間稼ぎを行ったが、実況するアナウンサーも「デイヴェルソンは審判に叩かれたとシミュレーションしている」と爆笑。このプレーこそが、マランドラージェンやマリーシアと言えるものである。

 VARの導入で、カチンバはやがて、死語になるのかもしれないが、人間臭いプレーの数々が筆者をやはり、南米サッカーに惹きつけるのである。

記者/通訳者/ブラジルサッカー専門家

1971年、大阪市生まれ。大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)でポルトガル語を学ぶ。朝日新聞記者を経て、2002年にブラジルに移住し、永住権を取得。南米各国でワールドカップやコパ・リベルタドーレスなど700試合以上を取材。2005年からはガンバ大阪を追いつつ、ブラジルにも足を運ぶ。著書に「ジャポネス・ガランチードー日系ブラジル人、王国での闘い」(サッカー小僧新書)などがあり、「ラストピース』(KADAKAWA)は2015年のサッカー本大賞で大賞と読者賞。近著は「反骨心――ガンバ大阪の育成哲学――」(三栄書房)。日本テレビではコパ・リベルタドーレスの解説やクラブW杯の取材コーディネートも担当。

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