晴れた日に傘を貸す金融が終わるとき
普通の商業においては、顧客の個別具体的な需要に応えればよく、人としての顧客そのものを知る必要はないのですが、金融においては、金融庁が顧客本位というように、顧客そのものと真摯に向き合うことが求められるのは、なぜなのか。
仮構としての顧客
商業においては、個別具体的な商品に対する需要があるだけであって、顧客と呼ばれるものは、その需要の背後にあるはずのものとして想定されている仮構です。仮構という表現が過激なら、顧客像といってもいいでしょう。実際、対面の商業で顧客の顔が見えていても、その顔は特定の商品との関係における仮面なのであって、仮面の裏の真の顔は見えているわけではなく、ましてや、非対面の商業では、顧客とは、個別具体的な消費行動から構成される想像上の像にすぎないのです。
むしろ、商業の本質を純粋に追求するのならば、個別具体的な商品に対する需要に、的確に、最短の時間で、最小の費用で、最低の価格で応えることだけに注力して、顧客像を構成しようとする全ての努力を放棄し、経費を徹底的に削減すべきです。実際、顧客像を追い求めるのは、購入動機を知り、需要の根源にまで遡及できれば、新たな需要を創造できると思うからであって、顧客の利益のためではなく、商人自身の利益のためだからです。
商業の逆説
商品の内容の適切で詳細な表示がなされていても、顧客が完全に理解できるとは限らないわけですから、対面の商業においては、販売員等による接客を通じて顧客の需要と商品との適合性が確認されていて、非対面の商業においても、接客に替わる仕組みが工夫されています。しかし、現実には、接客の機能は、顧客の立場で需要に忠実であろうとすることではなく、商人の立場で新たな需要を創造しようとする努力になっています。
こうして、顧客そのものを理解しようとする努力や、接客によって顧客の需要に的確に応えようとする努力は、実は、商人の立場からする需要創造の努力、平たくいえば営業努力である場合が圧倒的に多く、そこには、程度の差こそあれ、押し売り的要素を含むわけですから、顧客の利益に反する帰結すら生じかねないのであって、ここに、顧客像の追求によって顧客に忠実でなくなるという商業の逆説が露呈するのです。
商業の極限
商業の基本に忠実であるためには、顧客そのものを捨てて、特定の商品に対する顧客の個別具体的な需要だけに集中するか、全く逆に、特定の商品に対する顧客の個別具体的な需要を捨てて、顧客そのものに集中するか、この両極端しかないと思われます。前者は、商品本位の徹底であり、後者は、顧客本位の徹底です。要は、商業に限らず何事であれ、基本に忠実であるとは、基本を極限まで徹底することなのです。
しかし、徹底することは、極めて難しいことです。実際、商品本位を徹底すれば、商品範囲が狭く絞り込まれて、事業規模に上限が画されるだけでなく、狭い領域へ事業基盤が集中することになって、経営が不安定化します。逆に、顧客本位を徹底すれば、多種多様な需要に対応して、少量多品種の品揃えが不可避になりますから、経営効率が著しく悪化します。
実は、商業の基本は、個々の商人においてではなく、多数の商人の競争を通じて、社会全体において、貫徹されるものなのです。つまり、経済学の基本原理からすれば、各商人が商業の基本に忠実であることによって、商品本位と顧客本位の均衡が実現して、最適な状況が生まれるのではなく、全く逆に、各商人が自己の利益のために商業の基本を逸脱して勝手な競争を繰り広げることの結果として、社会全体としての最適な均衡が実現していると考えるほかないわけです。
要は、愚かな商人の行動の集積は、賢い帰結を生むということです。
規制業の本質
規制業とは、国民の絶対的な必需があるにもかかわらず、自由な競争によっては、最適な供給体制の整備が実現できないために、規制による自由競争の制限が正当化される領域のことです。ここでは、営業という自由競争、即ち、需要創造の努力は全く不要であるどころか、むしろ有害であって、有害だからこそ、規制されているのです。
医療をみれば、このことは容易に理解できます。医療機能は必需ですが、需要の創造や病院の営業活動による事業拡大は全く考え得ないことであり、医療の究極の目的が国民の健康の増進ならば、疾病治療としての医療は縮小に向かうことが国民の利益なのです。また、経済原理によっては、例えば、患者数の少ない難病の治療体制の整わないことも明瞭です。
つまり、医療においては、国民の利益の視点に立ち、広大な領域における国民の多様な需要について、供給体制が維持され、機能の高度化がなされるように、規制によって経済基盤の確保を行うことで、医療機能本位の徹底がなされ、そのことによって、同時に、国民本位の徹底も実現されているわけです
賢人の独裁よりも愚人の合議
そこで、規制が完全であれば、どの領域でも、商品本位と顧客本位の均衡が実現するとも考えられますが、完全な規制はあり得ません。
実際、政治においては、賢人による独裁は、おそらくは、最も優れた帰結を生むでしょうが、世に賢人は得難く、歴史的には、賢人を騙る悪人による独裁が災禍のもとになってきた経緯があるので、世に満ち溢れた愚人凡人による民主主義が採用されているのです。
同様に、経済においては、賢人による規制は、おそらくは、最も優れた帰結を生むでしょうが、世に賢人は得難く、歴史的には、賢人を騙る役人による規制が非効率のもとになってきた経緯があるので、原則としては、世に満ち溢れた愚かな商人による自由競争が採用されていて、一部の例外として、賢いはずの役人による規制が残されたのです。
賢い金融庁
金融は規制業の代表格ですが、金融行政の目的は、戦後長らく、高度経済成長を実現するために不足していた資金の確保に置かれてきたので、金融規制は徹底的に金融機関本位の思想のもとにありました。そして、低成長が定着し、資金不足が完全に解消していた昭和の最後、過剰資金の不動産への流入がバブルを招き、その遺産処理により金融危機の生じた前世紀末、金融庁が発足したのですが、金融行政の目的の転換は起きませんでした。
しかし、近時、二代前の長官の森信親氏のもとで、金融庁は賢い規制機関として大変貌を遂げ、規制の背後にある基本思想は、金融機関本位から、国民本位、即ち、金融機能の利用者本位に根本的に改められたのです。この転換は、金融機関に対して顧客本位の徹底を求める施策として、具現化されています。
晴れの日に傘を貸す金融
一人の顧客が生存保障と死亡保障の二つの保険に同時に加入する、扶養家族のない高齢者が高額の死亡保障の保険に加入する、富裕でもない普通の人が高額の借金をして不動産に投資する、年金受給者が投機的な投資信託に投資する、こうした事例は明らかに顧客の利益に反します。
しかし、金融機関が商品本位の営業を徹底すれば、避け難く起きることですし、ましてや、複数の金融機関が同一の顧客に対して好き勝手に自分の都合で別々の機能を提供しようとするのですから、事態は一段と深刻になります。要は、同一の患者に対して、消化器科、循環器科、呼吸器科等の別々の医師が自分の業績のために病気の営業をして、相互連関なく勝手に治療しているようなものです。
こうした事態を防止するために規制があるにもかかわらず、逆に、その横行を招いたのは金融行政の目的が誤っていたからで、愚かな規制の危険性を証明すると同時に、その是正は賢い規制によるほかないことも証明するのです。
金融における顧客本位
医療における患者本位とは、医療の対象は個別の疾病の治療ではなく、生きて苦しむ患者の心身両面における健康であることを常に肝に銘じつつ、同時に、個別の疾病治療に関する技術の高度化を絶えず志向することであるように、金融における顧客本位とは、金融とは、個別の金融機能の提供ではなく、生きて悩み喜ぶ顧客に対する総合的な金融的支援であることを常に肝に銘じつつ、個別の専門領域における機能の高度化に絶えず努めることなのです。