金融庁は、顧客本位ということを、金融機関に求めているのですが、背景の事情を理解しない一般の人からすれば、行政の施策にするまでもなく、商業の常識だということになるでしょう。しかし、金融庁は、顧客本位をもって、単なる顧客満足としているわけではなく、金融も含めて、世の商売では、顧客満足の名のもとに、顧客本位に反したことが行われがちであることを問題視しているのです。

ギャンブルは顧客満足が高い

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今、カジノ解禁が話題になっていますが、当然のこととして、賛否両論が拮抗する問題です。賛成論からすれば、カジノを含む統合型リゾート(IR)施設を開発することは、海外からの来訪者を増やすなど、大きな消費需要を生むことから、成長戦略の一つの柱になるということでしょうが、反対論は、ギャンブル依存症等、社会的弊害を問題にするのです。

そもそも、ギャンブルは、ギャンブル依存症に陥る人、大金を失う人がでてしまうように、顧客の真の利益に反する効果を生みます。故に、犯罪とされているのです。その立派な犯罪でも、前からある公営ギャンブルや今回のカジノのように、地方自治体の資金調達や経済政策上の効果という大きな公益があれば、特別な法律を作って、犯罪でなくすことができる、さて、このことを、どう考えるべきか、これは古くからある難問です。

ここでの一番難しい問題は、ギャンブルは著しく顧客満足が高いということです。だからこそ、強い需要があって、公営ギャンブルなど、その強い需要を利用することでなりたっているのです。似たようなことは、煙草や酒にもあるわけで、健康への影響を考えると、顧客の真の利益に反する面を否定できないのですが、そこには顧客満足に基づく極めて強い需要があって、故に、高税率を課しても売れる、売れるから税収になるという関係が働いています。

無駄な消費の経済効果

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さて、顧客満足は、必ずしも顧客の真の利益ではないとしても、本人が満足していれば、それでいいともいえますし、満足こそ、顧客の利益とも思えます。しかし、経済の発展を支える消費は、当然のこととして、顧客満足を前提にして成長しているのですが、それが顧客の生活に密着した真の需要に適ったものかどうかは、一つの大きな問題なのです。

もちろん、需要に適っているからこそ、顧客満足があるのですが、その需要は、顧客の生活の必要をはるかに超えて、増幅されたものであるのが普通です。顧客満足とは、実は、顧客の需要に受動的に応えることから生まれているのではなくて、必要を超えた需要を顧客に働きかけて能動的に創造するところに、生まれているのです。

このことは、生活の衣食住の全ての側面に明らかです。世のなかには、ミニマリストという生き方があるようですが、暮らしの最低限の必需にまで消費を切り詰めても、生活の豊かさに大きな影響はないのです。しかし、ミニマリストは例外的生き方であって、ほとんどの人は、必需をはるかに超えた消費を行っています。

そして、その無駄ともいえる過剰消費こそ、顧客満足の対象であり、経済成長の原動力なのです。カジノ解禁は、こうした現代社会の病理を前提にしたものです。もっとも、病理というのは、ミニマリスト的哲学からした表現であって、そこには、顧客満足があり、生活の喜びがあり、まさに、文化生活があるのですから、それでいいのです。

貸さぬも親切

そうではなくて、大事な論点は、表面的な顧客満足よりも、必需に基づく真の顧客の利益を考えなくてはならない場合もあるということです。それが金融の問題です。

かつて、城南信用金庫の理事長を務め、全国の信用金庫の発展に大きな功績のあった小原鐵五郎の名言に、「貸すも親切、貸さぬも親切」というのがあります。これは、顧客からの融資の申し入れに対して、その顧客の真の利益を考えたとき、資金使途等からみて、貸さないほうが顧客に対して親切である場合があることをいっています。

小原鐵五郎は、融資を「心配して差し上げる」ことと表現していたように、不動産投機のための資金など、資金使途によっては、最終的には顧客の不利益になるという理由で、いかに十分な担保があっても断じて貸さなかったのです。顧客満足ということをいうなら、融資すべきです。実際、融資を断られた人は、大いに不満足に思ったことでしょう。

昭和のバブルは、金融界の過剰な不動産融資がもたらしたものです。もしも、金融界が小原鐵五郎の哲学に忠実であったら、それは防げたのです。融資を受けて不動産を買い漁った人の満足は、どれほど大きかったことか。そして、それらの人の消費が齎したバブル経済の繁栄は、どれほど華やかだったことか。しかし、それらの人の多くは破産したのですから、金融界の行動は、真の顧客の利益に反した結果を生んだのです。そして、その結果、金融界自身も巨額な損失を被ったというわけです。

小原鐵五郎は、顧客の真の利益を考えていたのであって、それが親切だと信じていたのです。故に、親切を貫く限り、顧客満足に反してでも、貸せないものは貸せないと考えたのです。そして、親切を貫くことは、結果として、信用金庫自身の安定した利益にもつながっていたわけです。この小原鐵五郎の経営哲学は、金融を社会的機能の重要性において位置づけるものとして、高度な内容をもっていたといえます。

「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」

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この哲学は、今の金融庁の森信親長官の理念に通じるものです。金融庁は、主として投資信託の販売と運用を念頭に置いて、「顧客本位の業務運営」ということをいっていますが、これは、なにも、投資信託に限定されることではなくて、森信親長官の理念を象徴するものとして、金融の全ての分野において当て嵌まるものです。

顧客本位というのは、真の顧客の利益に適うことを意味しています。真の顧客の利益は、表面的な顧客の満足とは違います。その違いは、小原鐵五郎の言葉では、「心配して差し上げる」ことと、単に融資することとの違いです。

金融庁は、顧客満足に反してでも顧客本位を貫けとまでは、明示的には、いっていないようですが、森信親長官は、アパートローンの膨張に関して、小原鐵五郎の表現でいえば「貸さぬも親切」のようなことをいわれているので、顧客満足に反してでも顧客本位を貫けということは、理念的には、いわれているのだと思われます。

小原鐵五郎のいう親切についても、顧客の真の利益の立場にたつという意味で、同様の理念を表明されています。それは、単なる「顧客本位の業務運営」ではなくて、「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」という表現で、明示的に行政方針に記載されているのをみてもわかります。

フィデューシャリー・デューティーというのは、専らに顧客の真の利益のためにという意味であって、それを徹底していけば、顧客の真の利益に反すると思われるときには、顧客の求めに応じられない場合もでてくるでしょうし、逆に、顧客が求めていないものでも、それが顧客の知識不足や思い違いに起因するのならば、適切な説明によって顧客の真の利益に気付かせることも必要になるでしょう。

例えば、住宅ローンの申し込みについて、真の顧客の利益の視点で、家計の状況や家族構成などを総合的に検討するときは、持ち家よりも、借家を進めるほうがいいときもあるでしょう。まさに、小原鐵五郎のいう「貸さぬも親切」という場合はあり得るのです。また、貸すにしても、住宅の仕様と金額の適正化を図るべきことは当然です。

また、生命保険の死亡保障については、契約者本人の顧客満足を得ることは最初から困難です。顧客満足は、本人死亡後に、保険金受取人のもとで生じるほかないのです。故に、保障ニーズは、真の顧客の利益の視点にたった親身な生活コンサルティングのなかからしか、創造されません。こうした需要創造こそ、真の保険営業なのです。

おせっかいなフィデューシャリー・デューティー

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では、顧客本位とは、要は、おせっかいなのか。そうかもしれませんが、では、親切とおせっかいの違いは何でしょうか。金融機関の主観的評価としては、親切でも、顧客の受け止めかたとしては、顧客満足の高い顧客本位は親切と感じられ、顧客満足の低い顧客本位はおせっかいと感じられるだけのことです。顧客本位の業務運営とは、顧客本位を顧客満足に優先させる金融機関の姿勢だと考えられます。

顧客本位のもとで、顧客満足に差があるのなら、まだしも、いいのです。なぜ、顧客本位の優先を徹底させなければいけないかというと、顧客満足が高くても、顧客本位に反する場合があるからですし、更にいえば、敢えて意図的に顧客本位に反することで、顧客満足を高めることもできるし、顧客本位を無視して、表層的な顧客満足を追求することもできるからです。

投資信託は、預金と違って、収益が不確定なのです。この不確実性は、ギャンブルに通じるものです。そこで、投機的色彩を帯びた投資信託を作って、ギャンブル的な顧客満足を生みだすこともできます。また、投資収益を超えた分配金を毎月支払うことで、年金のようにして、錯覚による顧客満足を生むこともできます。

特に、この錯覚された年金的側面は、高齢者に対して、非常に高い顧客満足を与えているようですが、そのような見せかけの顧客満足に基づく投資信託の販売は、真の顧客の利益に反していて、顧客本位でないのではないか、ましてや、高配当を人工的に作り出すために、大きなリスクと費用を負担しているとしたら。

高齢者の場合、もしかしたら、実の子供すら、滅多に顔をださないなかで、雨の日に服を濡らして、暑い日に顔じゅう汗だらけにして、金融機関の若い人が来てくれて、色々と話をしてくれるとしたら、それだけで、大きな満足を得ている可能性もあって、いかに顧客本位に反する投資信託でも、喜んで買ってしまうかもしれません。さて、それで、金融の社会的責任が果たせるのか。

誰しも、おせっかいな人がいて、傍から、そういう高齢者に注意してあげたほうがいいと思うでしょうが、それならば、むしろ、金融機関の人自身がおせっかいになるべきです。そのおせっかいこそ、「顧客本位の業務運営(フィデューシャリー・デューティー)」なのです。

顧客本位なギャンブルと投機

しかし、十分な資産があって、年収も高く安定している人にとって、ギャンブルを抑止するようなおせっかいは無用です。ギャンブルこそ顧客本位である、そのような顧客類型はあるのです。金融においても、投機は、流動性の供給という社会的機能があるので、必要なのです。故に、投機資金の導入も必要なのですから、金融庁も、投機が顧客本位になり得ることを否定できないでしょう。

ただし、このような顧客本位について、フィデューシャリー・デューティーという括弧書きを付すことには、強い抵抗があります。しかし、金融行政方針には、括弧書きのあるものとないものと、顧客本位に二種類があるとは、どこにも書いていないのです。つまり、顧客本位という施策は、投資信託等を通じた国民の資産形成に関していわれていることであって、明らかに資産形成に反する投機については、対象外なのです。

では、投機における顧客本位は、どこに行ったか。それは、重点施策ではないので、記述する必要もないということでしょうが、おそらくは、株式の積極的な取引やFX等の投機にふさわしい場所に押し込めておけばいいということではないかと思われます。

一部の証券会社のように、こういう投機に金融機関としての事業領域を見出すことは、金融庁も否定していないはずです。しかし、同じ考え方で、資産形成の分野に進出してくることは、断固として許さないということでしょう。