8月8日、東京五輪が終了した。

 在英の筆者は、開会・閉会式の模様を含め、すべてをテレビ(あるいはネットに接続されたデバイス)で視聴することになった。

英メディアは概ね、好意的な評価

 日本では開催自体に賛否両論があったが、終わってみて、英国のメディアを見てみると、「コロナ禍の大変な時に、よくやった」という好意的な評価がほとんどのようだ。

英紙「忘れられない大会に」―東京五輪、「問題抱えていた」とも指摘

 (在英邦人向け媒体「英国ニュースダイジェスト」のウェブサイトから)。

 この記事の中から、以下、少し拾ってみると:

保守系高級紙「デイリー・テレグラフ」:「運が良かったのか、判断力があったのかはともかく、(開催するという)賭けは成功だった」。

リベラル系高級紙「ガーディアン」:「問題を抱えながらも静かな輝きを放ち、世界は楽しいものであることを思い出させてくれた」(ただし、問題点も指摘)。

保守系高級紙「タイムズ」:「五輪はスポーツ競技だけでなく、思い出や英雄、人生を肯定する瞬間を提供している。それが今ほど貴重だと感じられたことがあるだろうか」。

 ほかの媒体の関連記事も数本読んでみたが、開催までに尽力した人々の努力や選手たちの業績の素晴らしさに敬意を払っている印象を受けた。

 しかし、問題は開催国の日本に住む人がどう思っているか、日本や日本人にとって、どんな意味があったのか、である。

 この点について、日本に関心がある人・住んでいる人・何らかの形でつながっている人は考える必要がありそうだ。

 この点を度外視して、今回の五輪の本当の評価をするわけにはいかない。コロナ禍の開催となったので、特にそうである。

「時代に合わなくなってきた」のでは?

 一方、「日本」というキーワードの外で考えると、今回の五輪は、様々な構造的な問題を露呈させたように思う。時代の変化に合わせて、抜本的な変更があってもよいのではないか。

 以下、在英の筆者が気づいた、いくつかの点を記してみたい。

(1)五輪大会は国民的行事として応援する競技大会・・・ではなくなってきた

 インターネットが普及し、テレビやラジオの番組をネットを通じて「個人が好きな時に視聴する」時代になった。

 国民全員が特定のイベント・番組などを視聴する、という習慣自体が崩れてきている。

(2)生まれた国以外から参加する選手たちがいる

 閉会式では、男女マラソンの上位3位の選手にメダルが手渡された。

 男子の金メダルはケニア代表のエリウド・キプチョゲ氏、銀メダルはオランダ代表のアブディ・ナゲーエ氏、銅メダルはベルギー代表のバシル・アブディ氏である。

金メダルのキプチョゲ氏(中央)、銀メダルのナゲーエ氏(左)、銅メダルのアブディ氏(右)
金メダルのキプチョゲ氏(中央)、銀メダルのナゲーエ氏(左)、銅メダルのアブディ氏(右)写真:青木紘二/アフロスポーツ

 銀のナゲーエ氏も銅のアブディ氏も、祖国ソマリアを離れた難民で、別々の国から出場し、表彰台に並んだ。

 すでに「難民選手団」というチームがあるのは、ご存じの通りだ。2016年のリオ五輪で初めて結成され、難民の苦難への意識を高め、世界各地の難民に希望のメッセージを届けることを目指す。今回の東京では29人の難民選手が参加した。

 また、ロシアの選手たちには「ROC(ロシア・オリンピック委員会)」という名称が使われている。ロシアは、組織的なドーピング問題で来年末まで主要国際大会から除外されているため、違反歴や疑惑がない選手のみ、個人資格で五輪出場ができるからだ。

 国際的な人の移動は今や日常的になっており(コロナで制限はあるが)、代表する国とその選手の出身国とが一致しない例を見ても、誰も驚かなくなった。

 国ごとに競う形をとる大会は、今後、どこまで意味があるのだろうか。そんな疑問を筆者は抱いた。

(3)大会開催地の決定過程は、現状のままでいいのか

 4年毎に開催される五輪の開催都市をどこにするかで、常に競争が発生している。そのために使われるお金や人的資源などが巨大であることはよく知られている。

 果たして、意味があるのだろうか。無駄とは言えないだろうか。

(4)4年毎に異なる都市で開催する必要があるのか

 世界的に気候温暖化対策が叫ばれる中、4年毎に異なる都市で開催するという前提自体を真剣に再考してもよいのではないか。

 開催都市に選ばれると、新たな競技施設を建設するというパターンがあるが、特定の都市・国(複数あってもよいかもしれない)での定期開催とし、参加国・組織全員で開催日・修繕費などを負担する形はどうだろうか。

(5)開催できるのは、リッチな国の都市だけで良いのか

 五輪開催自体にも巨額がかかるので、余裕の財力がある国の都市での開催になりがちだ。これで良いのだろうか。

(6)国ごとのメダル獲得数のランキングは意味を失っているのではないか

 毎回、国ごとのメダル獲得数のランキングが連日発表されるが、違和感を持った方はいらっしゃらないだろうか。

 つまり、ランキングを見ると、常に上に来るのは中国、アメリカ、ロシア(今回はROC)、日本、英国などおなじみの顔が並ぶ。いずれも「巨額を投じて選手を育成し、支援できる国」である。

 これでは、つまらなくないか。世界に開かれている感じがしない。富裕国同士の国力の見せあいという面が出てしまわないか。

 「国」という単位でランキングを作るとしても、何か別の指標が必要なのではないか。

 例えば、フィナンシャル・タイムズ紙は「もう一つのメダル・テーブル」を作成した。これまでの大会から予想されるメダル数を算出し、実際に獲得したメダル数と比較した。

 これによると、予想数よりも最も多くのメダルを獲得したのはROC、これにオーストラリア、オランダ、中国が続いた。アメリカは予想数よりも8個少なかった。

 ほかにも様々な計測指標がありそうだ。

(7)五輪空間とその外の空間との乖離

 大会開催中、五輪関係者はコロナ感染を防止するため、「バブル」の中に存在した。連日検査を行い、様々な規制が設けられた。

 一方、日本国内ではどんどんコロナ感染者数が増加した。複数の都市には緊急事態宣言が敷かれた。

 バブル空間とその外の世界との乖離について、タイムズ紙のリチャード・ロイドパリー東京支局長がこう書いた(8月6日付)。

 五輪開催中の東京は「2つの異なる現実のバージョン」が不快なほど互いに対立していた、という。一方では五輪大会が開催され、もう一方ではコロナ感染が増大する姿があった。「東京五輪のユートピアと新型コロナウイルス感染症の大釜との間に挟まれた格好となったのが、首都圏に住む3700万人だった」。

 東京から遠く離れたロンドンで閉会式(8月8日)をテレビ視聴していた筆者は、バッハIOC会長のスピーチを聞いて、乖離の存在をはっきりと意識した。

 以下、太字にした言葉がうつろに響いた。

 コロナ禍の「困難なこの時、選手のみなさんは最も貴重な贈り物をしました。それは希望です」。

 「(コロナの)パンデミックが広がって以来、初めて、世界中が一緒になったのです」。

 「…東京五輪は希望、連帯、平和の大会でした」。

 バッハ会長が本気でそう思っているとしたら、「バブルの外の様子」とはかけ離れている、と筆者は感じたが、いかがだろうか。

 終わり近く、このような表現もあった。

 「私たちは選手のように(全力を尽くして)開催したのです。選手のために、です。一緒になって、実現させたのです」(注:カッコ内は筆者の補足)。

 「選手のために」という言葉がむなしく聞こえたのは筆者ばかりではないだろう。

 もちろん、選手は競技に参加したがっていただろう。しかし、「コロナ禍でも開催したのは、選手のためなんですよ」というニュアンスがあり、最後に責任を押し付けたようにも聞こえる。

 先のロイドパリー東京支局長は、バッハ会長が閉会式でスピーチをした時、五輪大会の「吸血鬼のような側面が伝わってきた」と書く(8月9日付)。

 「裕福で、中年及び高齢の人々が若い選手たちからエネルギーを吸い取る」イメージである。「私たちは選手のように開催したのです。選手のために、です。一緒になって、実現させたのです」の部分が特にそう聞こえたようだ。

(8)乖離の行き着く先は、「見たい人が見る」方式か?それでも良い?

 五輪のバブル空間とその外で起きていることの乖離を、筆者は英国内でも感じた。

 大会開催中、どの英メディアも五輪をほぼトップにし、新聞は特集ページを挟み込んだ。英国を代表する「チームGB」の活躍が大々的に報道されてはいたが、「どこか別空間で起きている」印象があった。

 複数のメディア分析によると、その理由は「日本と英国とは時差(8時間)があったこと」、「コロナ感染を防ぐためにジャーナリストが自由に取材をしにくかったこと」の上に、大きな問題があった。

 それは、英国では2012年のロンドン五輪、16年のリオ五輪までは、地上波で生放送が大量に視聴できたが、今回はBBCが「生中継は最大で一度に2つの競技のみ」という条件付きでの放送契約となったため、「いつでも、どんな競技でも視聴できる」(これまでの2大会の基本)が事実上、難しくなってしまったのだ。

 もっと見たい人は米ディスカバリーチャンネルの購読者(サブスクライバー)になるか、有料契約のチャンネルとなるユーロスポーツを選択するか。

 BBCの番組視聴には世帯ごとにテレビライセンス料(NHKの受信料に相当)を払う必要があるものの、競技放送のメインが購読者向けになったことの意味は大きい。

 東京五輪は、英国に住む人にとって、「ユニバーサルな(収入の大小にかかわらず、すべての人を対象にした)放送サービス」で提供されるものではなくなってしまったのである。購読料を払える人のみが、すべてを視聴できるコンテンツになってしまったのだ。

(9)エリートスポーツと有料視聴

 五輪大会の場合のように高い基準で競うスポーツを「エリートスポーツ」と呼ぶことがある。これと反対の位置にあるのが、「マス・スポーツ」(一般大衆のスポーツ)や「リクリエーション・スポーツ」などである。

 エリートスポーツの放送が(8)のように「有料の壁」に入った場合、何か不都合なことがあるのだろうか?

 五輪競技の放送が「見たい人がお金を払って見る」形が基本となれば、私たちは全く新しい世界に入ることになる。

 国あるいは開催都市の市民が税金を払う形で支援することは不可能になってくるだろう。政治的に正当化が困難になるからだ。

 「それでもいいではないか」という考えもあるだろう。

 一方、東京五輪の米国での独占放映権を持つ、NBCテレビの視聴率が低迷したと伝えられている。スポーツ・アプリやストリーミングでの視聴時間は増えたものの、伝統的なテレビでの視聴時間が思ったほどは伸びなかった。

 米CNNの記事(上記)は今は多くの選択肢が視聴者にあり、これが「メディアの断片化につながった」ことを低迷理由として説明している。

 ニューヨーク在住のジャーナリスト、安部かすみさんは五輪番組の視聴率低下の理由として、「人々の視聴習慣の変化」を挙げている。「特に若い世代の人々は従来のテレビ視聴習慣からパソコンやスマホ上でのストリーミングの視聴習慣にシフトしている」という。

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 次回の五輪大会はパリで開催される。時代のニーズに合う、地元に住む人の支持を背景にした大会になってほしいものだ。新型コロナも沈静化していることを願いたい。