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コロンビアの女性記者に「自由のための金ペン賞」 誘拐・拷問・性的暴行体験に負けないジャーナリト

小林恭子ジャーナリスト
オバマ元大統領夫人とクリントン元上院議員の間に立つベドヤ・リマ記者(中央)(写真:ロイター/アフロ)

 9月14日、世界新聞・ニュース発行者協会(WAN-IFRA)が報道の自由に寄与したジャーナリストに授与する「自由のための金ペン賞」(2020年)を、コロンビアの調査報道記者ジネス・ベドヤ・リマさんに贈った。

 ベドヤさんは報道の自由と性的暴行の犠牲者の正義ために闘ってきたジャーナリストだ。彼女自身が拷問とレイプの犠牲者でもある。

コロンビア(緑色)は南米北西部に位置する(ウィキペディアより)
コロンビア(緑色)は南米北西部に位置する(ウィキペディアより)
コロンビアの首都ボゴタ(外務省のウェブサイトより)
コロンビアの首都ボゴタ(外務省のウェブサイトより)

取材中につかまって

 2000年、当時26歳のベドヤさんはコロンビアの首都ボゴタの新聞「エル・エスペクタドル」の記者として、コロンビアの内戦を取材していた。官僚と極右民兵組織「コロンビア自衛軍連合(AUC)」がかかわった武器密売事件を追っているところだった。

 同年5月25日、市内のラ・モデロ刑務所で「パン焼き屋」という呼称がつく、民兵組織の指導者の一人にインタビューをすることになった。ベドヤさんは、編集デスクとカメラ担当者とともに刑務所を訪れた。この時の体験について、ベドヤさんは後に「ジャーナリストとはどんな存在なのか。その大きな意味を身をもって知ることになった」と語っている。

 刑務所に入るためのセキュリティチェックを受けるために3人はそれぞれ別々になった。ベドヤさんはこの時、2人の前から姿を消した。

 ベドヤさんは当時の状況をこのように説明している。「刑務所に到着すると、女性の係員が私がジャーナリストかどうかと聞いてきました。私が答えようとした瞬間、男がやってきて、私の腰回りに腕を回し、わき腹に銃を押し付けたのです。『歩かなかったら、殺すぞ、と言われました』」。

 男たちはベドヤさんの手足を縛って目隠しをさせた後、車のトランクの中に入れた。「長時間、車はどこかを走っていました」。

 到着したのは倉庫だった。中には複数の男たちが待っていた。「ここで、拷問が始まったのです」。

 ベドヤさんは殴られ、頭部、体全体、腹部にけりを入れられた。「この国では新聞は悪だ、よく聞いておけよ、これは新聞に対するメッセージだぞ」と男たちはベドヤさんを痛めつけながら、こう話したという。そして、レイプした。

 この時、「これで新聞社ではもう働けないだろう」という思いがベドヤさんの頭に何度も浮かんだ。メモを取っていたノート、これまでのインタビューや集めてきた資料をすべて取られてしまったからだ。

 「ジャーナリストとして正直に仕事をしていたから、こんなことになったのです。拷問の間、死にたいと思っていました」。

 しばらくして男たちは裸状態のベドヤさんを車に乗せ、道路脇のゴミの山のそばに投げ捨てた。路上によじ登ってきたベドヤさんを通りかかったタクシーの運転手が発見した。 

 この時の体験の詳細をベドヤさんは職場の誰にも話さなかった。2週間の休養を終えると、職場に戻り、いつも通りに記者としての活動を続けた。

 しかし、同様の暴力行為にあった女性たちに連絡を取り、話を聞くようになった。仕事とは関係なく、「個人的な理由」で彼女たちと接触したかったという。

 最初の誘拐・拷問から3年後の2003年、今度はエル・ティエンポ紙の記者となっていたベドヤさんは、左翼系反政府ゲリラ「コロンビア革命軍(FARC)」のメンバーに取材するため、撮影担当者とともに移動の際、今度はFARCに誘拐されてしまった。レイプはされなかったものの暴力を受け、8日間監禁された。

 この時もその詳細を誰にも話さないまま、ジャーナリスト活動を続けた。

沈黙を破る

ベドヤさん(WAN-IFRAのウェブサイトより)
ベドヤさん(WAN-IFRAのウェブサイトより)

 ベドヤさんが体験を語るようになったのは、2009年である。

 その時の心境について、ベドヤさんは英ガーディアン紙にこう話している。「同様の体験をしたたくさんの女性たちに会いました。国は犯罪が発生したことを認識せず、誰も追及しようとはせず、誰も話したがらなかった」ことを知った。ベドヤさん自身の体験を犯罪事件として追及するために警察の病院に連絡を取ったところ、「関連の証拠はすべて破棄されていました」。

 この年、ベドヤさんは「黙っている時ではない(No Es Hora De Callar)」運動を開始。内戦中に発生した性犯罪を国が免責としていることの撤回を求める運動だった。

 コロンビアの検察庁がベドヤさんに対する拷問と性的暴行は人道に対する犯罪であるという判断を出したのは、2012年。

 昨年7月、「米州人権委員会(IACHR)」*(本部ワシントン)は、ベドヤさんが性暴行事件の犠牲者であることを認め、約20年間にわたるベドヤさんに対する犯罪に対し、コロンビア政府に責任があるという判断を出した(注:「米州」とはここでは「米国の州」という意味ではなく、南北のアメリカ大陸を指す)。

 IACHRの判断を受けて、ベドヤさんに対する犯罪行為は米州人権裁判所(本部コスタリカの首都サンホセ)に提出された。コロンビアで発生した性犯罪が国際的裁判所で裁かれる最初の例となる。

 近年、ベドヤさんは「私の声は重要だ」(#MiVozCuenta)運動を主導している。これは児童の性的な搾取を非難し、犠牲者が自分の体験を語るよう支援する運動である。

 ベドヤさんはこれまでにも、国際女性メディア財団による「ジャーナリズムの勇気賞」(2001年)、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の「ユネスコ/ギレルモ・カノ世界報道自由賞」(2020年)など、数々の賞を受賞している。

ベドヤさんの受賞スピーチから

 現在は、エル・ティエンポ紙で働くベドヤさんの受賞スピーチから、一部を引用したい。

 拷問が続いた数時間は「自分の仕事を正直にやっていたからこんなことになったのだという思いと、継続してジャーナリズムをやっていきたいという強い思いがありました」。

 「ジャーナリズムという仕事を愛していたことが立ち上がる力を授けてくれました。書くこと、調査することを通して、次のステップに進めるだろうと信じていました」。

 「私と同僚は…市民のための独立したジャーナリズムを実践するために、多くの障害、脅しなどを乗り越える必要がありました」。

 「 (現代ジャーナリズムの巨人と言われる、ポーランド人のジャーナリスト)リチャルト・カプチンスキがこう言いました。『ジャーナリストである前に、私たちは人間なのだ』と。これを私たちは毎日の仕事で実践しなければなりません。マイクやカメラの前に座る人の身になってみることです」。

 「(武装勢力が)私を沈黙させようとしたとき、私は夢想家の若いリポーターでした。自分自身が新聞記事の1つになって初めて、新聞に掲載される記事が世界を変えることはないかもしれませんが、誰かの現実を変える力を持っていることが理解できたのです。私に起きたことに対して刑事免責となっている事態を変えるために闘うことで、尊厳が私の印になり、ジャーナリズムが正当性の裏付けになりました」。

 「報道の自由は最も貴重な権利の1つです。とりわけ最高の義務の1つでもあります。それは、『口を封じられないこと』なのです」。

コロンビアのこれまで

 日本の約3倍の面積を持つコロンビアは1810年にスペインから独立し、1886年、コロンビア共和国として成立した。1953年から58年までは軍事政権が続いていたが、これ以降は20世紀末ごろまで2大政党(保守党と自由党)による政治体制が継続した。

 過去50年以上コロンビアで発生してきた内戦では、複数の左翼ゲリラ組織(FARCもその1つ)がテロ活動を行ってきた。政府軍、左翼ゲリラ勢力、右翼的民兵組織(AUCも含む)の戦いとなる中、左翼及び右翼組織は麻薬を資金源として使った。

 和平交渉が大きな展開を見せるのは、2010年のサントス大統領の就任以降だ。2016年8月、政府はFARCと和平合意に到達。同年11月、修正を経て新たな和平合意をFARCとの間で署名し、これは国会で承認された。

 しかし、暴力行為は収まっておらず、コロンビアのジャーナリストは脅し、誘拐、殺害行為の犠牲者となっている。身の安全のために自己検閲をする場合もあるという。

 昨年8月、FARCの元幹部は政府に対して武装闘争を再開すると宣言した。FARCの元兵士らの社会復帰を政府は約束したが、これが履行されてない、また左翼活動家が政府軍に殺害されているなどの理由を挙げた。

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参考:外務省「コロンビア共和国」

 

ジャーナリスト

英国を中心に欧州各国の社会・経済・政治事情を執筆。最新刊は中公新書ラクレ「英国公文書の世界史 -一次資料の宝石箱」。本のフェイスブック・ページは:https://www.facebook.com/eikokukobunsho/ 連載「英国メディアを読み解く」(「英国ニュースダイジェスト」)、「欧州事情」(「メディア展望」)、「最新メディア事情」(「GALAC])ほか多数。著書『フィナンシャル・タイムズの実力』(洋泉社)、『英国メディア史』(中央公論新社)、『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、共訳書『チャーチル・ファクター』(プレジデント社)。

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