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「怪物」江川、雨に散る――1973年8月16日

川端康生フリーライター
(写真:岡沢克郎/アフロ)

<極私的スポーツダイアリ―>

 延長12回サヨナラ押し出し

 強さを増した雨が彼らの頭上から降り注いでいる。スコアボードには23個の「0」。両投手の投げ合いはスコアレスのまま、延長12回に達していた。

 塁はすべて埋まっていた。2つの四球と1本のヒットで1死満塁。

 延長に入ったあたりから降り出した雨は、この頃にはどしゃ降りと言いたくなるほどの激しさになっていた。

 一球投げるごとに、右手は尻ポケット(たぶんロージンバックが入っているのだろう)に突っ込まれたが、制球はままならず、ボールはことごとく高めに抜けていた。

 ベンチから伝令が駆け出したのはカウントが2ストライク3ボールになったときだ。次の投球がボールなら押し出し。試合は終わる。

 そして、ひときわ大柄な投手を囲むようにマウンドに円陣ができた。

「おまえの好きなボールを投げろ」「おまえがいたからここまで来れた」

 チームメイトはそう声をかけたという。「怪物」と称された投手にとって、そして「ワンマンチーム」と呼ばれ続けたナインにとって、その言葉は「最後の夏」に訪れた寛解の瞬間だったかもしれない。

 そして投じられた最後の一球。もちろんストレートだった。真上から投げ下ろしたこの試合の169球目――。

 やはり高めに抜けた。右打者のインハイへ。投げた瞬間、ボールとわかる球だった。

 打者はバットを抱えたまま両手でバンザイをしながら飛び上がり、それから思い出したように1塁へ走り出した。その背後で、3塁ランナーがやはりバンザイしながらホームベースへ駆け込んでくる。

 江川卓は無表情に見えた。淡々と小走りにマウンドから下りて、ゲームセットの列に加わった。

 延長12回サヨナラ押し出し。

 1973年8月16日、雨の甲子園で怪物は散った。

1973年

 この試合の映像は少し前にNHKで放送されたから見た人もいるかもしれない。僕も、そのビデオ録画の荒い映像で48年ぶりに高校時代の江川の投球を見た。

 念のために説明しておけば、まだ家庭用のビデオデッキなんてものがなかった時代である。もしかしたら発売にはなっていたかもしれないが、まだ高価。一般に普及し始めるのは1980年代に入ってからだ。

 家庭用に限ったことではない。テレビ局でもテープを“上書き”して使用していたから、この当時の映像はほとんど残っていない(大河ドラマでさえも初期作品の映像はないのだ)。

 48年前とはそんな時代である。

 ちなみに結婚式の定番「てんとう虫のサンバ」(チェリッシュ)がリリースされたのがこの1973年。

 テレビでは麻丘めぐみが「わたしの彼は左きき」を、桜田淳子が「わたしの青い鳥」を歌い、山口百恵がデビュー。その一方で、かぐや姫の「神田川」、チューリップの「心の旅」、そして井上陽水の「傘がない」など、テレビには出ないシンガーソングライターの曲もヒットしていた。

 若者の中でアイドル派とニューミュージック派に趣向が分かれ始めた時代だった。

 そういえば前年日本に復帰したばかりの沖縄出身のグループ、フィンガー5の「個人授業」がブレイクしたのこの年である(キョンキョンがカバーした元歌です、念のため)。

 プロ野球では東映から日拓ホームになったフライヤーズが、わずか1年で新球団「日本ハムファイターズ」になった。

 そして、優勝はペナントレースも日本シリーズも、もちろん巨人。9年連続の日本一だった。

 ただし、連覇は翌年途切れるから「巨人が勝つのが当たり前」だった最後のシーズン、それがこの1973年ということになる。

「怪物」

 江川の「怪物」ぶりについても一応説明しておこう。

 全国的に知られるようになったのは、この前年の夏だ。2年生の江川は栃木県大会で初戦から3試合をノーヒットノーラン2回と完全試合。敗れた準決勝も10回2死までノーヒットノーラン(延長11回サヨナラスクイズで初失点し敗退)。

 この快投がメディアで取り上げられ、注目を集めることになった。

 それでもこの時点ではまだ噂のレベルである。インターネットどころかビデオも普及していなかった当時、本物の怪物を見た者はまだほとんどいなかった。

 全国デビューは3年春のセンバツだ。ここで江川は噂通りのピッチングを披露する。

 大阪代表との初戦でいきなり19奪三振。真上から投げ下ろすストレートは浮き上がるようにホップし、打者のバットはボールの下で空を切った。時にはキャッチャーミットに入ってからスイングするシーンさえあった。

 さらに続く2回戦で10個、準々決勝で20個と、まさに三振の山を築いた江川は、準決勝で敗れはしたものの、この大会優勝を飾る広島商業からも11奪三振(被安打2)。

 結局、甲子園4試合で60三振を奪う、まさしく怪物ぶりで全国の度肝を抜いたのである。

打倒・江川の大会

 だから当然、この1973年の夏は江川の大会になった。

 ちなみにこのときの栃木県大会でも5試合のうち3試合でノーヒットノーラン。残りの2試合も許したヒットは1本ずつ。

 要するに2本のヒットしか許さず(もちろん無失点で)、県予選を勝ち抜いていた。

 迎えた甲子園でも初戦で23奪三振。その怪物ぶりは相変わらずだった。

 ただし、相手の柳川商業は徹底した江川対策を講じてきた。初回の先頭打者からバントの構え。そこからバットを引くバスターで何とかボールを捉えようとしたのだ。

 しかもバットを異常なほど短く持った(小学生だった僕はテレビで見ながら、かえって打ちにくいのではないかと思った覚えがある)。

 そして23三振を喫しながらも7本のヒットを放ち、1点を奪い、延長15回まで競り合いを演じてみせたのだ。

 江川の大会は、打倒・江川の大会でもあった。

 そして続く2回戦で対したのが銚子商業だった。

 当時の銚子商業はこの大会も含めて春夏4度連続で甲子園に出場し、翌年夏には全国制覇する強豪チーム。江川に投げ勝つことになる土屋はこのときまだ2年生だったが、翌年のドラフトで中日に1位指名される好投手だったし(NHKで放送された映像は土屋氏の個人所蔵ビデオということだった)、その土屋の1学年下にはやはりドラフト1位で巨人に入団する篠塚もいた(江川との対戦時には骨折で欠場)。

 つまり超高校級のチーム。そんなチームもまた、打倒・江川に燃えていた。

 速球対策に加え、投球フォームを分析。その癖を見抜き、直球かカーブかを見抜けるようにさえなっていたというから準備は周到だ。

 事実、銚子商業はこの試合で11本のヒットを放つ。これは江川が高校時代に1試合で許した最多安打だろう(5番・青野は一人で3安打。たぶん江川からもっとも多くのヒットを打った高校生だ)。

 一方、作新学院のヒットは4本だけ。江川が注目される一方で、栃木県予選でもチーム打率は2割4厘。マウンドに怪物がいたとはいえ、チーム力は明らかに劣勢だった。

 この試合も優位に進めていたのが銚子商業(決着がつくまでに得点のチャンスが少なくとも2度あった)。

 最後の場面にしても、満塁、フルカウントだったから、もうストライクしかない。当然、銚子商業ベンチからはスクイズのサインが出ていたはずだ(実際、打者の長谷川はバントの動きをしていた)。

 しかし、その必要はなかった。雨の中投じられたボールは高く浮き、見送り、押し出し……。

48年前、怪物がいた

 映像を見返しながら覚えたのはそんな感想だった。勝つべきチームが勝った。あの試合はそんなゲームだったと思う。

 それでも印象的だった場面が2つある。

 7回裏、ライト前へのポテンヒットとバスターからのレフト前で2、3塁のピンチを迎えたときの江川の投球。

 全力だった。右足を高く上げ、躍動感のあるフォームから投じたストレート、カーブ、ストレートでの三球三振。そこにはプロ入り後も見た記憶がないような凄味があった。怪物の神髄に半世紀近く経って初めて触れた気さえする、本気のピッチングだった。

 そしてもう一つ、最後の最後のシーン。

 サヨナラ四球を選んだ長谷川がバットとともにバンザイしたシーンはよく覚えていた。しかし映像を見ると、ホームインした磯村ばかりか、その背後に映っているサードコーチも、みんなバンザイ。我を失ったかのように小躍りしていた。

 それどころかランナーに次の塁を踏むように指示している様子まであった。全国屈指の強豪がそんな基本的なことを忘れてしまいかねないほど――。

 あの夏の球児たちにとって、江川はそれほどの投手だった。

 48年前、甲子園に怪物は確かにいた。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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