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スポーツと個人と自由について――東京五輪閉幕

川端康生フリーライター
(写真:ロイター/アフロ)

世界の窓

 オリンピックをはじめとした国際大会は「世界の窓」だと思っています。

 特に、周囲を他国と接していない島国で、自国内でしか通じない言葉で社会や世論が形成される日本では、それはとりわけ貴重な窓だと感じています。

 閉会式での、4年後(いや3年後)の開催地パリからの中継映像。

 大勢の人が集まり、楽しそうに踊りながらオリンピックを歓迎している風景に驚いた人も多かったようです。

 もちろん、その評価については人それぞれでいいと思います。SNSを見ても、「あんなに密で、おまけにマスクもしてないなんて」と感染拡大を心配する人もいたし、「日本もウィズコロナに移行しないと」とフランスに共感する人もいた。

 どちらが正解か、どちらのやり方が成功するのかわからない以上、善悪を論じても仕方ありません。

 ただ、「違う」ということを知ることはとても大切だと思います。

 日本では当たり前と思っていたが、どうやらフランスでは違うらしい。僕らの正義が他国でもそうとは限らない。

 違うことを知るということは、特にガラパゴス化しやすい日本と日本人にとって不可欠だと思います。

パリの青空

 ちなみに自国開催の五輪へ向けて盛り上がる映像と同じ頃、フランスではデモも行われていました。

 ワクチン接種証明書の提示義務拡大に対する抗議デモ。詳細はここでは省きますが、抗議の本質には「個人の自由」があります。

 彼らが何より大事にするものです。

 思い出すのは「モスクワ五輪ボイコット」。ソ連のアフガン侵攻に反対して「西側諸国がボイコットした」とされているモスクワ五輪ですが、実はそうでもありません。

 イギリスやイタリア、スペインなどヨーロッパの国はほとんど参加。フランスももちろん参加しています。

 山下泰裕や高田裕司の涙の訴えも実らず、日本選手が参加できなかった大会に、なぜ彼らは参加できたのか。

 実は、フランスでは参加/不参加は「個人の判断」とされたのです。だから、それぞれの選手が自らの考えの下、モスクワ五輪に参加したり、取りやめたりした。

「個人の自由」を尊重するフランスらしい話です。「個人」や「自由」のプライオリティが日本とは随分違うような気もします。

 パリからの中継映像を見ながらそんなことを思い出していた僕には、あの朗らかなステージと青い空がうらやましく映りました。

 そういえば閉会式で、バッハ会長と並んで登場したIOCのセバスチャン・コーもモスクワ五輪に出場しています。

 イギリス人の彼もやはり「西側諸国がボイコットした」はずの大会に出て、しかも金メダルまで獲っている。

 ここにも日本とは違う「スポーツ」と「個人」と「自由」の話があります。

(もう少し詳しい話はこちらに書きました→モスクワ五輪ボイコットが決まった

トルシエの日本人評から

 かつてサッカー日本代表を率いたフランス人監督は「日本人はまったく車が走っていない道路でも、信号が青になるまでじっと待っている国民だ」と揶揄しました。

 ルールへの従属とシステムの完遂力という長所の一方で、個人の判断力に欠ける国民性を皮肉って、そう喩えたのです。

 念のため。そもそも日本のように信号が設置されている国は世界では珍しいです。信号に限らず、当たり前のように時刻表通りに電車が来るのも、街のいたるところに(お金の入った)自動販売機が無造作に置かれ、24時間開いていて何でも揃う商店があるのも、世界的には相当珍しい(だから外国人観光客は「渋谷のスクランブル交差点」と「コンビニ」に行きたがります)。

 日本がかなりユニークな国であることは知っておく必要があります。

 もちろん、悪いことではありません。時間に正確で、治安がよく安全安心なことは当然いいことです。何より便利ですし。

 ただ、そんな便利なシステムとサービスの中で、「個人」が社会的・日常的に去勢されているのもまた事実な気もします。だから、ノーマルではない状況に直面し、それまでのようにルールやシステムで対応できなくなると思考停止に陥ってしまいがち。

 そもそも自分で判断する習慣がない(必要がない)から、考えることも、考え続けることもできず、本質に視点が向かない。

 結果、目的と手段を取り違えることも起きます。

 トルシエの例え話で言えば、大事なことは車に轢かれないことのはずなのに、信号を守ることが先に来てしまう。

 そして、安全かどうかより、ルールを守っているかどうかにフォーカスした末に、たとえ危険がなくても、ルールを破っている行為を非難する風潮まで起きる。

 近くに人がいなければマスクを外してもいいはずなのに、遠くで見ている誰かに批判されそうだから……。

「監視社会」と「自粛警察」、その結果としての「萎縮社会」です。

 そんな社会では車が来なくても信号が青になるまで待っていた方が、確かに無難かもしれません。

 その一方で「赤信号みんなで渡れば青信号」なんて風刺ギャグが一世を風靡したこともありました。

 車が来なくても信号が青になるまで待っている国民は、誰かが渡り始めれば赤信号でも……な国民でもあるということです。

 一見真逆のように見える行動ですが、実は根っこは同じです。どちらにも「自分」がない。

 そういえばテレビや新聞のインタビューに「オリンピックもやってるんだから私も自粛しない」と言っている人がいました。

 自分で決めない人に「自粛」はそもそも不可能だと思います。

自由の純度と強度

 言うまでもなく、オリンピアンたちはそんな国民性を突き抜けた存在です。

 渡るのであれ、渡らないのであれ、「みんな」で横に並んでいるようなメンタリティでは、競争を勝ち抜き、日本代表選手になることはできません。

 もちろん、彼らが戦う舞台は世界なので、日本の常識やモラルに則っていても勝てません。

 東京五輪で、国外で生活し、練習し、試合をしている「海外組」が多く活躍したのも、その意味で当然だと思います。

 世界大会で好成績を収めるには、ある意味「日本人離れ」しなければならない……と書くのは少々残念ではありますが、納得できる現象に僕には思えます。

 敗戦後のインタビューで「最後まで攻める姿勢は見せましたね」と甘やかな声をかけられた久保選手が、「そんなものは何にもならないです」と返したのは象徴的なシーンだったと思います。

 今回のオリンピックに関して言えば、予想外のパンデミックが起き、世論の逆風にも見舞われ、選手たちの煩悶は想像するに余りありました。

 でも、彼らはこれまでにも逆境や不運を数え切れないほど経て、ここまで辿り着いた選手ばかりです。

 子供のころから競技生活を通して順風満帆だった選手などいないと思います。

 負けもあれば、怪我もあったはずだし、悔しさもやるせなさも、投げ出したくなることもあったはずです。

 それでもやめなかった。翌朝になれば、暑くても寒くても疲れていても、やっぱりスパイクを履き、ジャージに着替え、トレーニングをし、また試合に向かい、しかも勝つまでやめなかった。

 もしかしたら遊んでいる友人をうらやましく見つめたときもあったかもしれないし、食べたいものを我慢したこともあったかもしれません。

 それでも、やっぱりやめなかった。

 そんな姿勢はたぶん「ストイック」と呼ばれるのでしょう。でも僕はそれこそを「自由」と表したい。

 正解かどうかわからない。もちろん勝利も成功も約束されていない。

 それでも、だからこそ自分で決めて、自分でやる――。

 ガッツポーズも、悔し涙もありました。達成感の清々しい顔も、後悔や不条理に歪んだ表情もたくさん見た。

 僕にとってはそんな彼らの、自由の純度と強度に心震わされた17日間――東京オリンピックが終わりました。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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