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「東京オリンピック」は実現するか

川端康生フリーライター

いよいよ決定の瞬間が近づいてきた。

2020年夏季オリンピックの開催地が、明後日の深夜(日本時間9月8日未明)に決まる。

候補地はイスタンブール(トルコ)、マドリード(スペイン)、そして東京(日本)。1964年以来となる「東京オリンピック」は実現するのか――。

「東京」優勢?

東京の優勢が伝えられている。

その最大の根拠は、IOCが公表した招致都市の「評価報告書」。

イスタンブールには「隣国シリアの内戦による治安上のリスクや輸送計画の不安」を、マドリードには「経済危機の影響」を指摘しているのに対して、東京に関しては大きな問題点はなし。

開催計画や運営能力を高く評価しているのはもちろん、懸念材料だった「地震」や「放射能」についても不安視されておらず、3都市の中でもっとも好印象な内容だったのである。

加えて「治安」の良さ、「財政的」な裏付け(45億ドルの開催準備金を用意)といった東京の強みも“優勢”を後押しする要因。

トルコでの反政府デモだけでなく、ブラジルやイタリアでもデモが起きており、2016年のリオデジャネイロ五輪の準備には遅れが出ている。そんな不確実で不安定な時代にあって、「安全・安心・確実なオリンピック」が見込める東京のアピール度は強い、という見方である。

しかし、招致合戦はそれほど単純なものではない。

あえて言うなら「スポーツ」と「スポーツイベント招致」は別物。フェアに勝敗が決するとは限らない世界なのである。

五輪招致の暗闇

そもそも日本は、五輪招致において目下3連敗中である。

「1988年」大会に立候補した名古屋はソウルに、「2008年」大会の大阪は北京に、そして前回の東京はリオデジャネイロに、それぞれ敗れた。

それぞれに時代背景は違うし、“敗因”も異なるが、開催都市が単純な「評価」で決まるわけではないことは歴史が証明している。

たとえば「1988年」の開催地(1981年に決まった)に立候補したのは、実は名古屋だけだった。

当初、アテネやメルボルンも立候補を予定していたが財政的な理由で断念。この頃、オリンピックはまだ、(1976年に開催したモントリオールがその後財政的に破たんしたことでもわかる通り)開催都市にとって「儲かるイベント」ではなかったからだ。オリンピックビジネスが勃興するのは1984年ロサンゼルス五輪以降のことである。

ところが、名古屋で決定かと思われた締切翌日になって、ソウルが立候補の意志を表明。しかも信じられないことにIOCはこれを受け付けたのだ。結果、名古屋とソウルの一騎打ちによる招致合戦が行なわれることになった。

それでも名古屋の優位は疑いようもなかった。

当時の韓国は軍事政権下。1980年のモスクワ五輪、1984年のロサンゼルス五輪と、東西冷戦の影響でボイコットの応酬となった時代背景を考えれば、(北朝鮮との対立関係がある)韓国での開催はまたしても東側諸国が参加しない危険性が高く、オリンピックそのものの価値を揺らがせかねない。

もちろん韓国は経済においてもまだ発展途上。運営能力も含めて(経済大国日本の)名古屋の優位は揺らぎもようなかった。

しかし、名古屋は負けたのである。

何が起きたか……についてはここでは詳述しない。だが、舞台裏で絡み合った様々な思惑や、水面下で行なわれたディールは、時間の経過とともにかなり明らかになっている。

(関係する本も出版されているし、ネット検索でもある程度の情報は得られるので関心のある方はどうぞ。ただし「サンダーボール作戦」をはじめとした表面的な集票活動を知るだけで思考を止めない方がいい)。

とにかく、政治に翻弄されていたオリンピックが、商業化へと舵が切ろうとした時代にあって、「当選確実」とみられた名古屋は敗れたのである。

当落は予測不能

「2008年」の大阪は、どこよりも早く立候補を表明し、「世界初の海上オリンピック」を打ち出して招致活動を行った。

しかし、第一回目の投票で脱落。それもわずか「6票」しかとれない惨敗だった(開催地となった「北京」は44票)。

そもそもこの大会に立候補を噂されていたアメリカが取り止めたことからはじまり、北京に立候補を勧めたのがサマランチIOC会長だったと聞けば、何らかの“意志”が働いていたと考えない方が不自然だ。

だが、ここではその背景よりも、敗者の弁が興味深いので紹介したい。落選後に当時のJOC会長が口にしたコメントだ。

「投票後に『俺は(大阪に)入れた』と肩をたたいてきたIOC委員が11人いた」

繰り返すが、大阪の得票数は「6票」だったのである。

付け加えれば、最近ではサッカーのワールドカップにおいても日本は招致合戦で敗れている。カタールでの開催が決まった「2022年」大会の開催地を巡る争いである。

実はこの開催地選定においては、FIFAが作成した「評価報告書」で日本は高い評価を受けていた。そして、なんとカタールは最下位だったのである。

評価報告書が好印象だったからといって楽観することはできないということだ。

ブエノスアイレス、午前3時すぎ

開催地が決まるIOC総会は、ブエノスアイレスのヒルトンホテルで行われる。

しかし、そのIOC総会で決定されるのは「開催地」だけではない。「次期会長」選挙と「実施競技」の選定も同時に行なわれるのだ。

ジャック・ロゲ会長の後任を選ぶ「会長選」に立候補しているのはトーマス・バッハIOC副会長(ドイツ)や棒高跳びの世界記録保持者、セルゲイ・ブブカ理事(ウクライナ)など。「実施競技」は、野球・ソフトボール、スカッシュ、レスリングの3競技から一つが選ばれることになっているのだが、実はこれが気になっている。

この二つの投票が「開催地」に影響を与えることも考えられるからである。

聞くところによれば、現在のIOC委員は派閥意識が低く、その結果、いわゆる“組織票”が形作られにくい状況らしい。それはそれで素晴らしいことだ。IOCにおけるサマランチや、FIFAのアベランジェなど強烈なリーダーの下、票が固まるのは健全とは言えないし、それに対抗する勢力が集まり対立構造が生じる図式も見苦しい。

その意味では、現在のIOCは(その委員たちの投票は)かなり健全なものに思えるが、そうは言ってもこれは投票である。選挙後を考えずに票を投じることなど考えられないし、“勝ち馬”に乗ろうとするのは自然な行動だ。「会長選」や「実施競技」での投票行動が、そのまま「開催地」とリンクすることも十分起こりうる。

そうなったときには……思いがけない結果が出ることもあり得る。

最後に個人的な思い出も交えながら記せば、この手の話題をするとき、僕は17年前のチューリヒを思い出してしまう。

1996年5月31日、「2002年ワールドカップ」の開催地はこの地で決まった。本来、開催地が決まるのは6月1日のはずだった。しかし5月30日夜、突然「共同開催」の提案が日本側に伝えられる。その日の昼までは「勝てる」とほころんでいた招致団の顔つきが、31日朝にはすっかり強張っていた。

そして翌31日、投票さえ行なわれずに、日韓共同開催は発表されたのだ。「ワールドカップは一ヶ国での開催」というFIFA規約さえ無視して。あの日の理不尽さを僕は忘れることが出来ない。だから――。

国際スポーツの舞台では何が起こるかわからない。

「東京オリンピック」は実現するのか、それとも……。

開催地決定は9月8日未明。ブエノスアイレスからの吉報を待ちたい。

フリーライター

1965年生まれ。早稲田大学中退後、『週刊宝石』にて経済を中心に社会、芸能、スポーツなどを取材。1990年以後はスポーツ誌を中心に一般誌、ビジネス誌などで執筆。著書に『冒険者たち』(学研)、『星屑たち』(双葉社)、『日韓ワールドカップの覚書』(講談社)、『東京マラソンの舞台裏』(枻出版)など。

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