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北朝鮮に渡った在日はどのように生き、死んだのか(1)「日本に連れて行ってください」 私は懇願された

石丸次郎アジアプレス大阪事務所代表
岡山県生まれの李昌成さんは大飢饉の98年に中国脱出。今は韓国に住む。撮影石丸次郎

今年、在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業が始まって60年になる。1959年から1984年までの25年間に、「在日」人口の6.5人に1人に及ぶ計9万3340人(日本国籍者約6800人を含む)が北朝鮮に渡った。

この「在日帰国者」たちが、北の祖国で穏やかに暮らすことができれば問題はなかったのだが、早くに亡くなったり、音信が途絶えてしまったり、極度の貧困に喘ぐことになったり、はては生死も行方もわからないという事例が、少しずつ日本に伝わるようになった。

北朝鮮に渡った「在日」と、帯同した日本人家族は、いったいどのように生き、そして死んでいったのだろうか。在日コリアンと日本人が協働でその生き様を記録に残そうとNGOを昨年立ち上げた。(北朝鮮帰国者の記憶を記録する会)

このNGOを立ち上げる20年前の1998年、中国で取材中だった筆者は、初めて帰国者と出会う。飢民となって逃れて来た人だった。

この20年間に会った帰国者の生と死について書きたいと思う。

※ 連載2回目 北朝鮮に帰った「在日」はどのように生き、死んだのか(2)北の人を「ゲンチャン」と呼んだ帰国2世 

◆家族を脱北させたいので助けて

2016年1月中旬、韓国から聞き覚えの無い男性の声で電話がかかって来た。自分は数年前に韓国に来た脱北者で、北朝鮮に残してきた家族を何とかして探して連れて来たい。ついては手助けをしてほしい、と言うのだった。私の連絡先は脱北者の知人から聞いたという。

このような「離散家族探し」、「脱北幇助」を頼まれることが、年に何回かある。だが、私は一介のフリージャーナリストにすぎず、そんな力もないし、もちろんお金もない。どこかの筋の「引っ掛け」かもしれないという警戒もあって、このような連絡がある度に憂鬱になる。だが、連絡してくる人たちは藁にもすがる思いに違いないので、無下に断るわけにもいかない。

その男性には、金正恩政権になって中国との国境警備が格段に強化されて、脱北も以前とは比較にならないぐらい困難になっており、とても私などの手に負えない、韓国の脱北者支援団体に相談してみてはどうですか、と助言した。その男性はしばしの沈黙の後、こう言った。

「私は〇〇県から朝鮮に渡った帰国者なんです。娘をどうしても連れてきたい。何とかならないでしょうか?」

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◆隠されて見えない

北朝鮮関連のニュースが流れない日はないが、帰国事業、帰国者のことについては、報道されることも、「在日」の知人、友人たちと会っていて話の端に上ることもめっきり少なくなってしまった。帰国事業開始から長い時間が経ち、「遠い過去の出来事」と捉えられるのも無理はない。世代交代によって、帰国した人たちと日本に残った「在日」の間の繋がりも希薄、疎遠になってしまった。

朝鮮問題に関わってきた人や「在日」が書いたり話したりする帰国者のことも、遠い昔の思い出や、親族、知人が音信不通だという程度の、どこか他人事である(映画監督のヤン ヨンヒが人生をかけて、帰国した兄家族のことを描き続けているのを除けば)。

日本社会、「在日」が帰国者に対する関心を薄れさせているのは、彼・彼女たちの姿が「隠されて見えない」ことが大きいと私は考えている。帰国者が北朝鮮でどう生きたのか、どう死んだのかが日本に伝わっておらず、その存在や死に実感が持てないからだと思うのだ。

日本入りした脱北者として初めて大学を卒業したリ・ハナさん。帰国者2世だ。写真:キム・ヘリム
日本入りした脱北者として初めて大学を卒業したリ・ハナさん。帰国者2世だ。写真:キム・ヘリム

脱北帰国者初の女子大生リ・ハナさんインタビュー 辛いことありますが受け入れてくれた日本に感謝など

◆飢民となって中国に逃れた帰国者

筆者は1962年生まれ。「在日」の北朝鮮帰国が絶頂だった当時の社会の雰囲気も、朝鮮人が置かれていた厳しい暮らしぶりも知らなかった。「在日」が北朝鮮に大挙渡った時代について知ったのは、帰国事業終焉間際の80年代前半、大学生になってからである。祖国訪問で北朝鮮を訪れた「在日」の口から、少しずつ北朝鮮体制の異常さや、帰国した親族たちの不遇が語られ始めた頃だが、韓国政権の謀略情報の類だろうと考えていた。要するに、北朝鮮ことも、帰国者のことも何もわかっていなかったのである。

93年夏に初めて朝中国境に取材に行って以来、私は北朝鮮国内に三度入った他、ずっと朝中国境地帯に通い、合法・非合法に中国に出て来た北朝鮮の人々と会う取材を続けている。その数は1000人近くになる。

このように北朝鮮取材にどっぷり浸かることになったのは、97年の夏の国境取材の衝撃がきっかけだった。豆満江を挟んで北朝鮮と接する吉林省の延辺朝鮮族自治州に、凄まじい数の北朝鮮の飢民が押し寄せていた。国境沿いの朝鮮族の村々は、どこも毎晩数十人ずつが越境して来る有り様で、筆者は中国公安の目を避けながら、それこそ手当たり次第に越境者たちに会って話を聞かせてもらった。

北部の咸鏡南北道、両江道の人が大部分であったが、少数ながら、平壌や黄海南道の人もいた。市場や駅にごろごろ死体があるという身の毛のよだつような飢餓体験はほぼ共通で、この時期、北朝鮮に地獄図が広がっていたのは間違いにないと確信した。

■「コジッポ=乞食」と蔑まれた在日も

この時の取材で会った越境者に、帰国者に言及する男性がいた。咸鏡北道化城(ファソン)郡から来た果樹園労働者だった。

「2月ごろ、私の村に帰国者の老母と娘が流れ着くようにやってきました。雪が積もっているのに二人とも靴もなくて、縄と布で足をぐるぐるに巻いていました。村の空き家に入りこんで家々を回って食べ物を乞うていました。けれど私たちも食べ物がなくて飢え死にする者が出ているのに、あげられるものなんて何もない。

間もなく、まず娘のほうが死んでしまいました。それから私も中国に逃げてきたので母親のアメ(おばあさん)がどうなったのかわからないけれど、もう生きているとは思えませんね。帰国者には金持ちもいるけれど、日本から送金のない人たちは悲惨でした。もともと北朝鮮に親戚もいないから、コチェビ(浮浪者)になるしかない。『コジッポ』なんて呼ばれていました」。

彼の言う「コジッポ」とは「コジ(乞食)のキグクドンポ(帰国同胞)」という意味の侮蔑語である。その男性の証言を聞いた私は、延辺に流入する北朝鮮飢民の群れの中に帰国者もいるだろうし、いずれ必ず出会うことになるだろう、そう予感した。

■福岡からの帰国者の娘

翌98年の夏、豆満江上流の和龍県芦果村の取材拠点にさせてもらっていた農家を訪れると、前夜に越境してきたという若い女性がいた。彼女は両親が福岡県出身で、親戚の電話番号を持っていた。日本語ができない彼女に代わって私が福岡の親戚宅に電話を入れた。たまたま受話器を取ったのが母親の姉だった。突然の中国からの電話に絶句した後、「何とかするから、中国で静かに待っているように」と言った。受話器の向こうからは、驚きとともに、どうすればよいのかわからないという当惑がありありと感じられた。

芦果村で会ったこの女性の両親、つまり元「在日」の父母は、父親が97年に飢えで死亡、母親と弟が北朝鮮で、中国に越境した自分の帰りを待っているとのことだった。

別れ際に彼女が私に向かって放った言葉にたじろいだ。

「いったん北朝鮮に戻り、母と弟を連れてまた中国に出てきます。何とか日本に連れていってもらえませんか?」(続く)

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※在日総合雑誌「抗路」第2号(2016年5月刊)に書いた拙稿「北朝鮮に帰った人々の匿されし生と死」を大幅に加筆修正したものです。

アジアプレス大阪事務所代表

1962年大阪出身。朝鮮世界の現場取材がライフワーク。北朝鮮取材は国内に3回、朝中国境地帯には1993年以来約100回。これまで900超の北朝鮮の人々を取材。2002年より北朝鮮内部にジャーナリストを育成する活動を開始。北朝鮮内部からの通信「リムジンガン」 の編集・発行人。主な作品に「北朝鮮難民」(講談社新書)、「北朝鮮に帰ったジュナ」(NHKハイビジョンスペシャル)など。メディア論なども書いてまいります。

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