話題の「フリースタイルダンジョン」、ヒットの理由は”オタク×ヤンキー”

いま、「フリースタイルダンジョン」に熱狂している。毎週楽しみに観ているし、番組のテンションも衰えない。

「フリースタイルダンジョン」とは、昨年9月からテレビ朝日で放送されているバラエティ番組。フリースタイル、つまり即興のラップバトルに挑戦者が挑み、モンスターと呼ばれる強豪ラッパーたちを倒しながら勝ち抜き、賞金を獲得する。勝ち負けは、5人の審査委員がジャッジする。巷でも大変な話題となっている。

言葉を扱う職業なので、ラップというジャンルには昔から関心があったし、ラップ自体を扱った番組・コンテンツはこれまでにも多くあった。

スチャダラパー、KREVAといったアーティストも有名だし、お笑い番組「リンカーン」で中川家の剛を弟子入りさせた練マザファッカーも記憶に新しい。往年の名作ゲーム「パラッパラッパー」だって、広くはラップカルチャーだろう。

エミネムの半生を描いた映画「8 Mile」は映画館に観に行ったし、「SR サイタマノラッパー」シリーズは3本ともインパクトがあった。

音楽の専門家ではないので、ラップ、ヒップホップ、Bカルチャーの厳密な区別については分からないが、ラップはこれまで何度も浮かんでは消え、浮かんでは消えしてきたカルチャーなのではないかと思う。

SNS時代の素人演芸?

さらには「フリースタイルダンジョン」のヒットを、昨今のSNS時代を背景とした素人が演芸を発信するトレンドで説明する人もいるだろう。

実際、音楽や歌に比べて、歌唱力というハードルの低いラップは素人でも手を出しやすい(ように見える。後述する)。ラップを教える学校もたくさん出来て、若者からおじさんまで生徒が増加しているそうだ。

YouTubeの「歌ってみた」「踊ってみた」、「ハモネプリーグ」で火のついたアカペラブーム、現在アメリカで人気となっている「リップシンク(口パク演芸)バトル」など、素人でも始められる&SNSで発表しやすい演芸の一環として、ラップを捉えることもできるだろう。やる人口が増えれば、見る人口も増える。そうすればまた、やってみようと思う人も増える、と。

だが、どうも腑に落ちない。

幾たびも流行っては鎮火していったラップブームの再燃。SNS時代の素人演芸トレンドがそれを後押し。それだけでは、説明がつかない気がするのだ。モヤモヤする。

そこでもう少し掘り下げて、なぜ私が「フリースタイルダンジョン」に惹かれるのかということを、あくまで個人的に分析してみたいと思う。

繰り返しになるが、私は音楽の専門家ではないし、むしろ門外漢だ。音楽の歴史やヒップホップカルチャーについて、ああだこうだいうつもりはない。「フリースタイルダンジョン」というコンテンツの持つ魅力に、なぜ私が惹きつけられるのかを、個人的体験を交えながら迫ってみたいと思うのだ。

理由その1 オタク要素

まず、誤解を恐れずに言うならば、「フリースタイルダンジョン」はとてもオタクっぽい。そこに惹かれる。

ラップはそもそも、韻を踏んだ言葉を音楽に合わせて口ずさむ行為だ。日本語の響きに鋭いセンスを持ち、圧倒的な語彙を追求する姿勢がないと、とうていやっていけないだろう。

映画「8 mile」には、うだつのあがらない、特技も学歴もない貧乏青年エミネムが、韻を踏んだ言葉を日々しこしことネタ帳にストックするシーンが描かれる。

そこには、才能に満ちあふれた作曲家にメロディが天から降りてくる、という雰囲気はない。努力こそが報われる。日ごろから勉強と練習を重ねて始めてラップを口にすることができる。そういう地道で暗いオタク的な世界観が匂い立つ。

小さいころから本ばかり読んで、国語の成績ばかりを誇り、作文を書いてほめられては悦に入り、そのくせ、人とうまく話せず、要領が悪く、果てしなくモテなかった我が半生。

歌はうまくない、音楽のセンスもない、それでも、人前でなにかパフォーマンスを見せたい、脚光を浴びたい。そういう若き日にうごめいていた青春の欲望が、いまにして、ラップという行為から目を離させないのかもしれない。

実際、もし自分が高校生だったら、すがるようにラップを始めたと思う。モテたい一心で。でもきっとモテなくて。

実際、「フリースタイルダンジョン」に登場するラッパーたちは挑戦者・モンスター含め、どこか内向的でイケてない。

きらびやかな容姿だったり、社交的な性格のリア充はほとんどいない。むしろ童貞っぽかったり(著名ラッパー・Rー指定は、けっこうな大人になるまで童貞だったことを公表している)、暗かったり。あるいは、すごく普通の人っぽい。

そのオタクっぽさこそが、「フリースタイルダンジョン」が私を惹きつける第一の理由だ。

理由その2 ヤンキー要素

いっぽうで逆説的だが、「フリースタイルダンジョン」は、非常に非オタク的でもある。端的に言えば、暴力的で、戦闘的で、ヤンキー的だ。

というのも、ただ、しこしことこしらえたリズミカルな作品を披露し合うだけなら、確かに日本語オタクの頭脳比べなのだが、「フリースタイルダンジョン」は、あくまで「バトル」だ。

対戦する相手を、バカにし、けなし、陥れ、悪口を言う。一般でも使われる言葉となった「ディスる」は、ラップカルチャーから来ているが、とにかくもう、ひどい言葉をぶつけ合うのがラップバトルだ。

いちゃもんをつけ、揚げ足を取り、家族までをあざ笑い、放送コードに載せられない汚い言葉を吐き捨てる。怒り、罵り、相手を組み伏せようとする。その様は、街のケンカを見ているようで、ドキドキする。

さきほどのオタク性とは逆で、自分にまったくない備わってない要素だ。だからこそ、憧れる。

小さいころから、ヤンキー的なものとは距離を置いてきた。威圧的で、戦闘的で、おっかないヤンキーカルチャーはむしろ嫌いで苦手だ。それでも男子として持って生まれた本能のどこかが刺激されるのだろう。

時には「子供のケンカのようだ」と呆れつつも、チンピラのような人たちが、言葉の拳をぶつけ合い、終わったあとには握手する様には、純粋に胸を打たれる。

ラッパーたちはたいてい、横浜や湘南、千葉や茨城、群馬など、首都圏周辺の郊外から番組に乗り込んでくる(時には大阪の下町から)。その匂い立つようなヤンキーっぽさもまた、私が「フリースタイルダンジョン」に惹きつけられる理由だ。

理由その3 ライブ要素

最後に私が舌を巻くのが、ラップバトルが持つ即興性だ。

あらかじめ準備してきた悪口や韻をぶつけ合うのではない。その場その場で、思いつきで、やり取りの流れに沿った言葉を口からほとばしらせなくてはいけない。

私の仕事は言葉を練り、思いを文章にすることだ。だから、時間さえあれば、いいものを作る自信はある。落ち着いて考え、最適な言葉を選び、構成にはめて推敲すればいい。

だが、彼らは「その場」だ。ライブだ。瞬時に、0.02秒(推定)で、次の言葉を思いつき、噛むことなく吐き出さなくてはいけない。韻を踏んで。リズムを外さずに。これはもうお手上げだ。まったくマネができない。

ふだんから口にしている、つまりは準備してある定型文をバトルで繰り出すことは、「フリースタイルダンジョン」においては、よしとされない。あくまで相手の言葉を受け、それにかぶせて反論し、そのうえで、さらに上を行く悪口を言わなくてはいけない。

この即興性、ライブ感にもまた、私は強く惹かれる。

当たるべくして当たった?

以上、「フリースタイルダンジョン」に夢中になっている我が身を振り返ってみた。

すると「フリースタイルダンジョン」というコンテンツには、「オタク」「ヤンキー」「ライブ」と、実は現代のヒットのレシピがバランスよく詰まっていることに気づかされる。

オタクに受けることはとても大事だ。感度が高く発信力がある。学校のクラスの下層クラスターにも希望を与える。

ヤンキーに受けることはさらに大事だ。結局どれだけ文化が洗練されようとも、男は、日本人は、ヤンキー文化が大好きだ。

ライブは現代のキーワードだ。すべてがデジタル化されアーカイブ化され共有されるなかで、一瞬一瞬の体験にこそ、人はお金を払う。CDは売れないが、フェスは大盛況。現代の演芸・エンターテインメントは、二度と再現できない、二度と経験できない希少さが欠かせない。

メジャーシーンには不向きか

では「フリースタイルダンジョン」がこの勢いを駆って、ゴールデンタイムに進出したり、メジャーシーンに躍り出るかというとそれは疑問だろう。

そもそも、ラップの世界はアンダーグラウンドで、ヤバイ(危険な)雰囲気がつきもの。表舞台で成功し大金をつかんでいることはむしろ、「メジャーだかなんだか知らねえけど」とバッシングの対象となる。

メジャーにかみつき、コンプライアンスぎりぎりの言葉を吐き、マイク1本で我が道を行くことこそが、ラップの心(のようだ。番組を見る限り。理解が間違っていたら申し訳ない)。

テレビ朝日の深夜帯で放送され、ネットテレビ「AbemaTV」でも同時展開される「フリースタイルダンジョン」。これぐらいのさじ加減こそが、このコンテンツにとってもちょうどいいのではないか。

いや、もう少し正直に言えば、これぐらいが私にとってちょうどいい。これぐらいの流行している感じが好ましく、安心して楽しめるのだ。

何度目かのラップブームが再び地下に潜ってしまうことも望まないし、かといって、お茶の間で楽しまれるために不穏なヤバさが失われてしまうことも望まない(番組としてもそこは狙っていないのではないか)。実に勝手な話だが、ひとりのファンとしては、そう思う。

「フリースタイルダンジョン」の今後の展開を、興味深く、というレベルではなく、切実に、まるで祈るように見守っている。

(五百田 達成 作家・心理カウンセラー)