新V.LEAGUE開幕で、日本バレーは変われるのか

(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

「わたしは取材で泣いたことがない」

「わたし、優勝したら泣くかもしれません」

埼玉西武ライオンズがリーグ優勝を争っていた今年9月、球団を担当するあるメディアの一人が言っていた。

気持ちはわかる。1年間、そのチームを見続けていれば、思い入れは強くなり、感情移入する場面も増える。

「わたしは取材をしていて泣いたこと、ないからなぁ」

そう答えたわたしだが、「ここ十何年かは」という言葉をつけ忘れたことに、しばらくして気づいた。

1990年代から2000年代の初めにかけての期間で、おそらく、わたしの涙は枯れ果てたのだと思う。

そう言い切れるほど、よく泣いた。

バレーボールの取材をスタートしたのが確か1998年の世界選手権。まだ駆け出しの記者だったわたしは、その後、バレーボール界の危機に直面する。

企業のバレーボール部が次々と休部に追い込まれていく時代を間近で見ることとなったのだ。

1991年以降、10年の間に、男女合わせて24もの企業のバレーボールチームが消えた。その中には女子の古豪、日立も含まれていた。

2002年になると東洋紡、NTT西日本、日立国分が倒れ、とうとう休部の波は富士フィルムにまで及んだ。

富士フィルムは人気、実力ともに日本バレーをけん引していたチーム。そのような象徴的なチームまでもが消滅していったことは大きな衝撃だった。当時、不況による経営不振で、真っ先に矛先を向けられたのがバレーボールを含むスポーツ部だった。

その後も旭化成、NEC男子、記憶に新しい2014年のパイオニアへと続く。

休部発表会見での首脳陣の涙

休部発表の会見に出席したこともある。ある古豪チームの監督は会見のあと、顔見知りの報道陣に歩み寄り、こうつぶやいた。

「がんばれなくて、ごめんね」

目には涙がいっぱいたまっていた。

そこにいた報道陣の目にも涙が光っていた。

わたしも泣いた。

ときにはチームが休部を発表した直後の試合に居合わせたこともあった。記者会見場で放心状態となり、全く言葉が出てこない選手の姿も見た。目はうつろで、手足の力が完全に抜け、会見場の椅子に座っているのがやっとという状態だった。

幾度も自分の無力さを痛感した。そして自分ごときの小さな存在が何を書こうと、この休廃部の動きは止められないのだと思うと、猛烈な虚無感に襲われた。

泣いても何も変わらないし、何も変えられないわたしには、消えるチームを思って泣く資格などない。ずっとそう思ってきた。

希望の光だった堺ブレイザーズ

2000年12月、堺ブレイザーズが誕生する。休部か、ゆくゆくは新日鐵以外のスポンサーを増やして自立の道を歩むかの決断を各スポーツ部に委ねたのである。自立の道を選び、地域密着型クラブチームとして生まれたのが堺ブレイザーズだった。

当時、バレーボール部部長を務めていた小田勝美氏は周囲の反対を押し切ってリーグの改革を進めた。

ユニホームにつける広告を許可することや、ホームゲームで主催者チームが収益を上げる仕組み作りなどに奔走した。周囲の、あまりの反対の声の多さに体調を崩したこともあるそうだ。

「当時、胃に穴が開いたんよ」と、あとになって笑って話してくれた。 

そして、これは以前どこかの媒体でも書いたが、それまで、目の前の仕事でいっぱいいっぱいだったわたしに、明確に「伝えたいこと」が生まれたのもこのころだったかと思う。試合内容もさることながら、チーム運営のスタッフはどんな仕事をしているのか。会場は埋まっているか、ユニホームの広告は増えているか。観客はどんな表情で試合を見ているのか。そんなことが気になるようになった。

異端が「当たり前」となる時代に

2018年10月26日、19時30分。V.LEAGUE男子大会ディビジョン1、開幕戦のホイッスルが鳴る。

いばらの道を進んできた堺ブレイザーズが思い描き、苦労してひとつひとつ実現してきたことが、新リーグでは「当たり前」になろうとしているのだ。

大きな一歩だとわたしは思う。

同時に、チームの消滅によってバレーボールをあきらめざるをえなかった先人を思えば、やっと改革が進み始めたのだと感慨深い。

日本のバレーボールリーグは生まれ変われるだろうか。

各チームのサポーターの皆さまには、ぜひ厳しくも温かい目で新リーグを見守ってほしい。