女たちの奔放な性の表現が「不穏当」…鮮烈デビュー作は1週間で発禁処分に 椋鳩十の文学から「戦後80年」を考える
自然界に生きる動物たちを通し、生命の尊さをたたえる名作を紡いだ鹿児島ゆかりの児童文学作家、椋鳩十(1905~87年)は今年、生誕120年を迎える。鹿児島県内や故郷の長野県喬木村では、業績を顕彰する企画展が開かれ、再評価が進む。戦後80年の節目に、戦時の厳しい言論統制下で書かれた作品を中心に、椋文学と戦争について考える。(連載「つなぐ命の賛歌~椋鳩十生誕120年戦後80年」①より) 【写真】椋鳩十の生家があった場所を示す椋鳩十記念館の木下潤児館長=2024年12月13日、長野県喬木村
中央アルプスと南アルプスに挟まれた長野県南部の伊那谷。南北に貫く天竜川の左岸、南アルプスの麓で椋鳩十は生まれ育った。険しい斜面の中央アルプス側に対し、南アルプス側は比較的なだらかな傾斜で奥深い山々に集落が点在する。 当時は山を移動しながら一般社会と隔絶した暮らしを続ける放浪の民が存在した。椋鳩十記念館(喬木村)の木下潤児館長(62)は南アルプスの手前に見える伊那山地を指し、「あの向こう側に、山中を行き来する人の流れが、諏訪湖から井伊谷(浜松市)まであった」と説明する。 椋文学のベースとなる自然のたたずまいは、この南アルプスの豊かな山の文化から生まれた。 ■ ■ 「私の祖父は世間で言う所謂(いわゆる)山窩(さんか)であった」 デビュー作「山窩調」の序文で椋は見事なホラを吹く。謎多き山の民、山窩の子孫を名乗り、何者にも縛られない自由な生きざまを野生味たっぷりに描いた。 椋の父・金太郎は、酪農を営む豊かな牧場主だった。芝居小屋を作って旅芸人を招いたり、自宅で俳句会を催したりする文化人。山の民との交流もあり、資料を集めていた。こうした環境で育った椋も学生時代から山窩について調べ、山窩調の巻頭を飾る短編「朽木」は学生時代に執筆を始めていた。資料や逸話にスペインの山の民バスクの話も交えて創作された。
孫の久保田里花さん(53)は「旅先でも山の民について調べ、生涯をかけて追いかけていた。祖父の自由への憧れが山窩小説に集約されている」と語る。 喬木村郷土誌によると、木材からわんや盆を作る木地屋(木地師)と呼ばれる山の民が江戸期に定住した記録がある。適材を求めて山中を移り住んだ木地屋の子孫は小椋姓を名乗り、今も小椋姓の多い集落が山中にある。山窩を名乗ったペンネームはここからきた。 ■ ■ 椋は法政大を卒業後、医師をしていた姉を頼りに鹿児島に移り住んだ。 満州事変を経て、日本が国際連盟を脱退した1933年、椋は「山窩調」を自費出版した。この年、プロレタリア文学の代表的作家、小林多喜二が特高警察による拷問で亡くなり、国家の弾圧が進んだ。この暗い時代に「山窩調」は評判を呼ぶ。著名人から称賛の手紙が届き、雑誌や新聞に椋の山窩小説が掲載された。計24編を収めた「鷲の唄」を春秋社が出版し、鮮烈なデビューで椋は文壇に確固たる地位を築くはずだった。