プーチンの友、シュレーダーの孤独な誕生日
プーチンの刎頸の友
彼は現職時代からプーチン大統領と親交を重ねた。刎頸の友と言うべき間柄だった。シュレーダー氏は、1998年から2005年まで首相を務めた後、ロシアとドイツを直接結ぶ天然ガス海底パイプライン・ノルドストリーム1(NS1)の運営企業の監査役会長に就任した。NS1の運営企業は、ロシアの国営企業ガスプロムの子会社である。 シュレーダー氏は、首相だった2005年に、ロシアからドイツへ天然ガスを直接送るNS1の建設プロジェクトをスタートさせた。プロジェクト合意調印式には、シュレーダー首相(当時)とプーチン大統領が出席した。 西ドイツが1973年にソ連の天然ガスを輸入し始めた時、ソ連への依存度は約5%だった。だがNS1の完成によって、ドイツが2021年に輸入した天然ガスの内、約60%がロシア産ガスだった。これほど対露依存度を高めた責任者の一人は、シュレーダー氏である。だが彼はNDRとのインタビューの中で「私はやましいことは何一つしていない。NS1の建設は、ドイツへのエネルギーの安定供給を確保するために正しい選択だった」と自己の決断を正当化した。この番組からは、シュレーダー氏が外界から遮断された、一種のエコー・チェンバーもしくはフィルターバブルの中に生きていることを浮き彫りにした。 シュレーダー氏は、プーチン大統領をハノーバーの自宅に招待したり、プーチン大統領のソチの別荘に行って一緒にサウナでビールを飲んだりするほど親しい仲だった。文字通り裸の付き合いである。 シュレーダー氏は、プーチン大統領の出身地サンクトペテルブルクのロシア人孤児を2人、養子に迎え入れた。シュレーダーとプーチンの両氏が、ともに貧しい家庭に生まれたことも親しくなった理由の一つだ。 シュレーダー氏の父親は、第二次世界大戦末期に、ルーマニアで戦死した。このためシュレーダー氏は、掃除婦として働く母親の薄給だけに支えられ、赤貧洗うがごとき幼年時代を送った。彼が子どもの時に一時住んでいた家には、屋内トイレすらなかった。「二度と欧州で大戦争を起こしてはならない。特にドイツとロシアは、二度と戦ってはならない」。この決意も、彼がロシアとの関係強化を目指した理由の一つだった。 シュレーダーを始めとするSPDの親ロシア派の基本原則は、「欧州での新しい安全保障体制を構築する際には、ロシアをつまはじきにしてはならない。欧州の平和保障は、ロシアを参加させなくては確保できない」という路線だった。「ポルトガルからウラジオストックまでを包含する『欧州共同の家』をロシアとともに築き上げよう」というのが、彼らの理想だった。 プーチン大統領は東ドイツでKGB(ソ連国家保安委員会)の将校として5年間働いたので、ドイツ語に堪能である。彼はロシアの大統領の座に就いた後、2001年9月にドイツ連邦議会に招かれた。彼はドイツ語で演説し「冷戦は終わった。ドイツとロシアは協力して、欧州共通の家を作ろう」と訴えた。彼の宥和的な口調には、21年後に東西対立を再び激化させるという意図は感じられなかった。 ロシアの大統領がしかもドイツ語を使って、連邦議会で演説したのは、初めてだった。彼は演説の中でゲーテやシラーにも触れ、ドイツ文化に対する尊敬の念を表した。この演説は多くのドイツ人に感銘を与えた。当時、プーチン大統領の経歴や背景を知るドイツ人は少なかった。プーチン大統領がKGBを退職してサンクトペテルブルク市当局で働いていた頃、地元の暴力組織と繋がりを持っていたことを知る者はいなかった。 一部の政治家は、プーチン大統領について「ロシアに新風を吹き込む改革者」という楽観的なイメージを抱いた。特にシュレーダー氏は、「プーチン大統領は、虫眼鏡で見ても傷一つない、正真正銘の民主主義者だ」と太鼓判を押した。当時のニュース映像を見ると、シュレーダー氏はプーチン大統領と一緒にいる時には満面の笑みを絶やさず、「べた惚れ」という印象を与える。 シュレーダー氏は、プーチン氏と親しくなった理由の一つとして、「プーチン大統領がドイツ語に堪能なので、通訳抜きで腹を割って話せること」を挙げた。