死にゆく場所ではなく生きる場所。TSURUMIこどもホスピスで幸せな生き方を考える
原 施設がポツンと存在しているだけでは利用者は来ません。「うちの子の病気はこれ以上の治療や快復がむずかしい。だったらこどもホスピスで過ごさせてもらおう」という発想には、なかなかならない。医師が「こどもホスピスっていう場所があってね」とご家族や子どもたちに紹介して初めて、彼らの選択肢に入ります。我々のような施設を誰が必要としてるのか、顔が見えていることが重要です。 高場 全国には、大阪市立総合医療センターのような小児がん拠点病院が15ヶ所あります。そこに重い病気を持った子どもたちが集まります。そのため子どもたちはもちろんその家族、学校、医者......様々な立場の人たちの課題が、病院に集約されます。事件は現場で起きているって言いますけど、この場合の「現場」は、病院なんです。 だから例えば、子どもたちのQOL(クオリティオブライフ)を上げるために外部との連携を支援する仕組みが、より充実すると良いなと思います。そうすると病院側も、僕たちのような地域の団体と積極的にリレーション作りができる。病院のニーズや課題を、内部でなんとかしようとするのではなく外に出しやすい構造を作ってほしいなと感じます。
子どもの意思は置いてけぼり
── 「TSURUMIこどもホスピス」は日本初の民間ホスピスですが、なぜLTCの子どもたちのケアに、なかなか光が当たらなかったのでしょうか。 原 病気の子に限らず、日本の社会で置いてきぼりになっているのは「子ども」だろうと思います。高齢者の方は、医療や福祉の分野で非常に手厚い体制が作られている。だけど子どもに対しては、なかなか関心が向かない。 なぜなのかを昔からずっと考えていたんですが......例えば親である間は、子どもに対する大人の関心は強いです。ただ子どもが成長していくと、極端な話、親としての意識はだんだん薄れていくのではないでしょうか。逆に、自分の老後の方がイメージしやすくなってくる。政治家もすでに老人の人が多いし、社会的な仕組み作りは、ますます高齢者向けに進んでいきます。 西出 私も少し補足していいですか。高齢者施設でも働いていたことがありますが、高齢者向けのサービスは充実していつつも、一人ひとりの幸せが考えられているかというと、そういう印象はありませんでした。結局、自分の生き方や死に方を選べるのは、元気に動けている世代だけなんやなって。生活に他者のお世話が必要な子どもや高齢者向けの制度には、死生観とか人生観みたいなものがなかなか反映されてない気がしています。 原 大人の患者さんから「私はもう治療を続けたくないです」と言われたら、本人の希望として受け止められる。子どもの場合は親の希望を聞くことになる。でも、親とはいえ、それは本人の希望ではない。そこが一番悩ましい。小児科特有のむずかしさだと思います。 ── まだ幼い子どもが患者の場合、本人の意思を治療に反映することができない。 原 本人は「もう苦しい思いをしたくない」と思ってるかもしれない。でも、親の願望が先に来ます。「ここで諦めたら後悔します」って言うけど、後悔するのは誰かというと、親自身でしょう。子ども本人が「後悔します」とは言わない。主語は全部、親なんです。もちろんご家族の思いは尊重すべきだけど、それがそのまま子ども本人の意思ではない。 親御さんたちは「この子のことは私が一番よく分かっています」とおっしゃいます。日本だと子どもは親の附属物で、子どものことは全部、親の責任だと捉えられがちです。でも、親の意思はどうしても客観性に乏しくなってしまう。だからこそ子どもの幸せは、親や医者、地域の人たちも含んだ"大人"が責任を持つべきだと思うんです。 西出 病院には、子どもたちにとっての「最善」だけを考えるような役割は置かれていません。病気を治すことが病院の役割ですから。子どもたちの周囲にいる大人が、どんな思いを持っているかで、その子の生き方が変わってしまう。病院によっても思想があるし、主治医によってもスタンスがあります。治療を諦めたくない親御さんや、最後まで治療を提示し続けることが一番の正義だと心から思っていらっしゃるお医者さんもいます。 でも、治療だけが子どもの幸せに直結しているかというと、必ずしもそうではない。そういう中で、私達はどこまで踏み込むべきか、いつも悩ましいです。