大谷翔平より半世紀以上前にメジャーのマウンドに立った日本人。世界で活躍できるアスリートの増加とスポーツビジネスの関係性
村上を巡る日米野球界の争い
しかし、村上のMLBでのキャリアは長く続かなかった。村上の投球を高く評価したジャイアンツは翌1965年シーズンも村上と契約を結んだが、これに対して古巣のホークスが怒った。 村上がまさかメジャーリーガーになるなんて想像もしていなかったホークスは、村上の保有権はホークスにあり、アメリカの球団が勝手に契約を結ぶことなどできないと主張。 要するに「村上を返せ」と迫ったわけだ。 ホークスとジャイアンツが日米プロ野球のコミッショナーまで巻き込んだ交渉を繰り広げた結果、村上はもう1シーズンだけジャイアンツでプレーし、翌年には帰国してホークスに復帰することになった。 村上は1965年、ジャイアンツのリリーフ投手として45試合に登板した(1試合のみ先発)。 4勝1敗8セーブ、防御率3・75というまずまずの成績を残したが、日米球界の取り決めにより翌年帰国した。 その後はNPBで1982年までプレーし、通算で103勝、30セーブを挙げた。 引退後は日本球界で指導者や野球解説者を務め、79 歳になる今も「日本人初のメジャーリーガー」という肩書とともに時折メディアに出演している。 村上がMLBでプレーしたのはわずか2シーズンで、それは日米球界間のしっかりとした取り決めがなかったという「大人の事情」によるものだった。 日米球界の板挟みになり、MLBでプレーし続ける夢を絶たれた村上は後年「もっとアメリカでプレーしたかった」と本音を漏らしている。
日本人が渡米早々MLBの「希望の星」に
野茂は1994年のオフ、近鉄バファローズを「任意引退」し、翌1995年にロサンゼルス・ドジャースと契約した。 正式なフリーエージェント選手として契約したわけでも、日米球界の合意に基づいてトレードされたわけでもない。 契約エージェントの団野村を右腕に、法の抜け穴をつくようにしてMLB入りした。 30年前に村上がジャイアンツと契約した際のホークス同様、野茂の古巣であるバファローズは怒った。 マスメディアもそれに同調し、野茂は「売国奴」「非国民」扱いされた。 日本を脱出した野茂はしかし、たちまちメジャーで旋風を巻き起こし、日本メディアは手のひらを返すように野茂を絶賛した。 野茂はいきなりナショナル・リーグの新人王と最多奪三振のタイトルを獲得、オールスターゲームの先発投手も務めた。 独特の「トルネード投法」はアメリカの野球ファンなら誰もが知るところとなった。 1994年8月から計252日間にわたるストライキでファンを失望させていたMLBにおいて、野茂の存在は新たな「希望の星」となった。