【インタビュー】小笠原慎之介(東海大相模・現中日)第97回大会・決勝 対仙台育英「神様が打たせてくれたホームラン」
順番が入れ替わって決勝の先発マウンドへ
同点の9回に飛び出した決勝アーチ。打ったのは力投を続けていた小笠原。二塁ベースを回ったところで喜びを爆発させた
【色褪せぬ夏、青春の甲子園 熱戦の記憶】 高校野球選手権大会が開催されてから1世紀。9年前の夏は、記念すべき100周年の大会でもあった。決勝は45年ぶり2度目の頂点を目指す東海大相模と東北勢として初の甲子園優勝を狙う仙台育英。名門校同士の対決は見応え十分の大熱戦となった。 取材・文=牧野正 写真=BBM 東海大相模は優勝候補の筆頭に挙げられていた。打ち出したら止まらない強力打線。投手陣には強力な左右2本柱がいた。小笠原慎之介と吉田凌(現ロッテ)である。エースナンバーは小笠原が背負ったが、ダブルエースと呼ばれて力は互角。門馬敬治監督は神奈川大会から日程と疲労を考慮しながら、ほぼ交互に起用してきた。最後の大一番。マウンドに上がったのは小笠原だった。 「あれ、途中で順番が狂ったんです。初戦の聖光(聖光学院)との試合に吉田が先発して、次の遊学館に僕が先発したので、順番で行けば(5試合目となる)決勝は吉田の番なんです。でも花咲徳栄との準々決勝に先発した吉田が4回途中で降板し、僕がそのあとに最後まで投げた。それで次の関東一との準決勝はどっちが先発するんだろうと思っていたら吉田で、7回まで投げたので、決勝は僕が先発することになったんです」 初戦の聖光学院から準決勝の関東一まで4試合。どの試合も、ほとんど2人で投げてきた。しかし最後の決勝、門馬監督は継投策には出ず、最後まで小笠原にマウンドを託した。そしてそれが劇的なドラマを呼び込むことになった。 決勝のマウンドに立った小笠原に特別な感情はなかった。「普通にやれば、優勝できると思っていた」からだ。緊張も重圧もない。あったのは「これが高校野球、最後の試合になるんだな」という思いだけだった。雨上がりでグラウンドは少し滑りやすくなっていた。 1回表、東海大相模は2点を先制。準決勝までの4試合中、花咲徳栄との試合を除く3試合で初回に4点を挙げていた。得意の先制パンチ。いつもの相模。3回には4連打から2点を追加して4対0とリードを広げる。しかし仙台育英も負けてはいない。その直後、敵失から大会No.1左腕にお返しとばかりの4連打を浴びせて3点を奪い返した。 「(失策は遊撃の)杉崎(杉崎成輝)ですよね。昔から大舞台でやるんです。だから絶対に決勝でもどこかでやるだろうとは思っていました(笑)。杉崎とは中学のチーム(湘南クラブ)も一緒で、何とかカバーしたいと思ったんですが……。そう言えば、5回もエラーしたんですよね。そのときは抑えられましたが、僕の調子自体もあまり良くなかったように思います。ただ、三番に平沢(平沢大河、現ロッテ)、四番に郡司(郡司裕也、現日本ハム)と仙台育英の打線もすごかったので、いつか打たれるだろうとは思っていました」 1点差に詰め寄られた東海大相模だが、4回表に再び2点を挙げて6対3と突き放す。仙台育英の反撃ムードを断ち切る貴重な追加点だった。 「そこがこの年の相模の強さでした。取られたら取り返す。監督がずっと“攻撃が最大の防御なり”と言っていて、決勝はそれが形となって出た試合だったと思います。今考えても本当にすごい打線でした。頼りになったし、よく打ってくれました。特に杉崎が打てばチームは勢いづいた。僕は九番にいて、おとなしくバントでもしてくれればいいよ、というような打線でしたから」 この日、小笠原の敵は仙台育英だけではなかった。手持ちのタオルをグルグルと回す仙台育英のタオルパフォーマンス。その応援の輪が一塁アルプスから右翼スタンド、内野席、さらにネット裏まで増えていった。東北勢に優勝の可能性が出ると必ず使われるフレーズがある・・・
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週刊ベースボール