目標は接触8割減 達成のため「接触の質」に注目を
自由を制限しても相互自衛
政府が頼りにならなければ、国民が国民の命を「自衛」する以外に道はない。 アメリカでは自衛のために銃・弾薬を買い込む人が多いという。暴動などが起きることを予想しての自衛であるが、ありがたいことに日本ではそういう自衛はしなくてよさそうだ。今、日本に必要なのは、「他人から自分を守る自衛」ではない。「自分を守ることが他人を守ることであり、他人を守ることが自分を守ることである」という集団的かつ共同的な「相互自衛」である。 犯罪捜査において、アメリカではプロファイリングが重視され、最近の中国では監視カメラと顔認証が有効な手段となっているが、日本はもともと、「交番」に象徴されるように、市民と警察が歩調を合わせて被疑者を炙り出していくような、準家族的な相互監視社会である。 たしかに、相互監視とか、ワンチームとか、国民一丸とかいえばファシズムの匂いがする。一時的にではあるが、自由が制限される。しかし新型コロナウイルスとの戦いは、国や民族や思想や宗教の違いによる戦いではない。よく戦争に例えられるがこれは戦争ではないのだ。人類共通の敵に対する自発的で良心的な戦いであり、きわめてレアなケースである。日本文化の特色を発揮して、国家権力に代わる「相互自衛」を成功させることができないだろうか。 いわば、今回の緊急事態宣言は、首相が国民に「自衛せよ」と書いたラグビーボールをパスしたようなものだ。やや無責任なパスであり、不整形なボールだからキャッチしにくいが、チームのメンバーであるかぎり、ボールを受けたら全力で走るほかはない。
接触の質と量
感染症対策の基本は、この島国に感染者を入れないことすなわち「水際」と、すでに感染した人から他の人に感染させないことすなわち「隔離」であると思われる。しかし日本では、初動の段階から、この「水際」と「隔離」が十分とはいえなかった。PCR検査も進まなかった。 専門家会議を含めた日本政府の方針は、人と人との「接触」を減らすということである。4月7日の安倍総理の会見でも、人と人との「接触」を7~8割減らせば、ピークアウトも見えてくるのではないかという部分があった。 ただ、7~8割という数字を実現するのは簡単ではない。同じ「接触」という言葉を使ったとしても、その内容によって危険度が大きく異なる。単に接触を減らすという言葉だけでなく接触の「質」と「量」について、具体的に考える必要があるのではないか。 人間と人間の接触を、「直接接触」、「近接接触」、「会話」と「発声」、「物を介した間接接触」に分けてみる。「直接接触」と「発声」は最小限(危険回避のみ)にするのが基本で、間接接触は手洗いと洗浄でかなり防ぐことができる。「近接接触」と「会話」については、マスクをした上で、距離をとって、その時間と回数を減らすことが要求される。 これを点数化してみよう。 たとえばマスクをした2人が、2メートル離れて、5分間会話することを2点とする。5人での会話なら10点(確率論的にはもっと増やすべきかもしれないが、ここは単純にしておく)、5人で30分間の会話をすれば60点となる。マスクをしなければ点を倍に、また距離が2メートル以下の会話ならさらに倍に、「密接」、「密集」、「密閉」ならそれぞれ10倍にする。つまり3密が重なれば一挙に1000倍である。そして1日の合計点数を10点以下にすることが望ましく、悪くても50点以下に抑えるべきといった目標を設定する。 この数字に根拠があるわけではないが、一人一人がこうした目標をもって行動することは悪くないだろう。簡単にいえば、直接接触や3密はもってのほか、できるだけ近接を避けて無駄な会話をしないということである。もちろん電子機器を介したテレコミュニケーションが有効であるが、メールでは音が出ないので、電話などを活用する方が、声が聞こえて精神的な孤立を防ぐこともできるだろう。 諸外国は強制力のある外出禁止、移動禁止策をとっている。いわゆる「都市封鎖」だ。しかし家に閉じこもっていることはかなりのストレスであり、ドメスティック・バイオレンス(DV)も問題になっている。日本の首都圏、関西圏の住居は狭い。やみくもに外出禁止にすればいいというものではないだろう。人混みを避けた散歩やジョギングはまず問題ないのだから、外出禁止より接触の質を考慮した量すなわち「接触質量」(もっと適切な言葉があるかもしれない)を減らす方が現実的だ。 とはいえ7~8割減らすというのは「激減」である。実現するのはかなり難しいのではないか。