【うちの子奮闘記】子どもは私ではない別の人。特性に気づいたら、子どもへの理解が深まった
言葉に関して、苦手なことがあるのがわかってきた
長女の成長に伴い、言葉の理解に関して苦手な部分があることもわかってきました。比喩や暗示のような表現の意図をくみ取ることが難しいらしく、歌の歌詞などは「これ、どういうこと?」とよく聞かれます。 たとえば“二人の海が色あせて見える”という歌詞があったとしたら、私はその歌詞を見て「関係が終わろうとしている二人の悲しみや虚しさの表現」だと捉えますが、彼女は文字通りに受け取ります。海の色がなぜあせるの?と。説明すれば「あ、そういうことか」とわかるので、聞かれたときには、できるだけ丁寧に解説するようにしています。 でもそれは、仕方なく解説しているという感じではありません。自分ひとりなら聞き流す表現で立ち止まり、ああかな、こうかなと考えるのも楽しいし、長女の受け取り方が新鮮でおもしろいとも感じます。そうしたやりとり自体が、長女とのコミュニケーションにもなっています。 また、長女は冗談や建前のような言葉も真に受けてしまいがちです。長女に何か頼まれたときに「じゃあ100円ね」などと冗談で返すと、「本当に払うのか払わなくていいのかわからない。払わなくていいなら、お金の冗談はやめて!」と、すごく叱られます。ごめん!と謝りますが、忘れてまた同じことを言ってしまう私です……。 言葉の意味にしても、冗談にしても、私は絶対に「なんでそんなことがわからないの?」とは言いません。彼女は私から生まれてはいるけれど、私とは別の一個人。別人なのだから、わからないことや受け取り方は違って当然です。そう考えるようになったら、失礼なことや無理解な言葉をぶつけることは自然となくなりました。
子どもの様子をよく見て、少し前の出来事を頭の中でリプレイしてみる
言葉には長けている長女ですが、自分の感情はめったに言葉で表現しません。特にマイナスの感情を表に出しにくいようで、怒りを感じていても、イライラした態度を取るくらい。一見そのように見えないのに、実は怒っていることに気づいてあげられないことも多々ありました。 いつもはそんな言い方をしないのに妙に言葉がきつかったり、次女に対していじわるな感じのことを言ったりするときは、本当は何かに怒っているサイン。最近は、よく観察することで小さな違和感にピンとくるようになりました。 そんなときは、頭の中でビデオテープを巻き戻すようにして少し前の出来事をリプレイし、原因を考えてみます。赤ちゃんの頃は、泣いていると、おむつなのか眠いのか、お腹がすいたのか、一生懸命少し前の状況を思い出して推察します。それと同じことを今でもしているようなものかもしれません。 私がそうやって彼女と向き合う限り、ふたりの関係性においては大きな困りごとは生じないと思っています。でも、私以外との関係や家庭以外のコミュニティーには、同じやり方を持ち込めません。その点は少し心配しています。