<情熱の理由(わけ)>甲子園への私の流儀 部員が地元の子供指導 倉吉総産・定常監督
5~6歳の36人の子供たちが歓声を上げながらキャッチボールやバッティングに興じていた。2021年12月、鳥取県中部のこども園で開かれた野球教室。指導するのは県立倉吉総合産(倉吉市)の野球部員たちだ。子供たちを見つめる定常弘顕監督(42)は願っていた。「この中から一人でも、地元で野球を続けてくれたらうれしい」 【熱血、スマイル…】センバツの歴史に名を刻んだ名将たち 「山陰の小京都」と呼ばれる倉吉市出身。高校は1988、89年とセンバツ連続出場の県立倉吉東に進んで野球に打ち込んだ。自らの出番はなかったが、1年生だった95年夏もチームは甲子園に出場。岡山大を卒業後、その母校で教員となり、13年には監督に就任。19年から倉吉総合産を率いる。ほぼ「倉吉一筋」の人生で地元愛は人一倍。倉吉勢は06年夏の倉吉北を最後に甲子園から遠のき、「久々に出場して地元を盛り上げたい」と意気込む。 ◇人口減でチーム存続の危機 過疎化が進む県中部にあって倉吉市も人口が20年間で1万人近く減り、4万5000人ほどだ。野球人口もしかりで、最盛期に12を数えた地元の少年野球チームも半減。「このままでは単独チームを組めない高校ばかりになる」。倉吉東の監督時代に強い危機感を抱いた。「何とかできないか」と悩んだ末の答えが、野球教室などを通じた普及活動を重ねていくことだった。 日本高校野球連盟が普及活動などを奨励する「高校野球200年構想」を打ち出したのが18年。定常監督はその前の16年から始め、多い年で6回程度、部員を連れて近隣のこども園や幼稚園を訪ねたり、少年野球チームを高校に招いたりして教室を開いてきた。当初はつてがなく、自分の子が通う園から始めたが、「今では『うちに来てもらえないか』とお誘いをいただける」と手応えを感じている。 ◇見え始めた成果 普及活動はチームの成長にもつながる。安達楓真(ふうま)主将(2年)は「子供とのコミュニケーションの方法や教え方を考えることで自分たちも成長できる」と話す。定常監督が移った当時、倉吉総合産は地方大会もなかなか勝ち進めず、部員も満足に集まらなかった。「このまま秋になれば新チームを満足に組めないかもしれない」。そんな心配もした同校だが、基本を大切にする指導もあって確実にレベルアップ。県内屈指のエースに成長した伊藤愛希投手(2年)のように、県内外の強豪校に進む力がありながら「倉吉から甲子園に行きたい」と倉吉総合産を選ぶ球児も出てきた。近年は県内有力校の一角に定着。昨秋は県大会準優勝で中国大会に進み、今春のセンバツ「21世紀枠」の補欠校に選ばれた。 普及活動には現役部員の理解と協力が欠かせないが、「限られた時間しかない選手を犠牲にしてはいけない」と一定のブレーキも忘れない。そんな定常監督が「とてもうれしかった」と語る出来事が昨夏あった。小学生の時に野球教室に参加した中学生が、倉吉総合産の野球部を志望していると聞いたのだ。 普及活動に触発されて「指導者を目指したい」と口にする部員も出てきた。「生徒たちが指導者として地元に帰ってこられるようにもしたい」と定常監督は言う。今後は世代を超えた指導者間の交流を深めたいと考えている。地元の野球環境を守り、より良くする。甲子園にもつながる熱い思いを胸に地道な活動を続けていく。【野原寛史】