「ちゃんと触れていかないと、母の尊厳を回復できない気がした」画家・弓指寛治さんが語る、亡き母のこと #今つらいあなたへ
葬式のとき、妹が母に手紙を書いて、棺に入れた。弓指さんもすすめられたが、言葉を綴る気力がなかった。何か絵を描いてあげようとボールペンを持つと、頭で考えるより先に手が動き、鳥のかたちがあらわれた。 「最後に金のわっかみたいなやつを持たせたらしっくりきたから、これはいいかもしれんと思って、(棺に)入れてあげました。死んだ次の日に坊さんがきて、みなさんが手を合わせればそれが供養になりますからとか言うんですけど、全く意味がわかれへんくて。昨日まで生きとった人を供養ってどういうことなんやろ、地獄に行ったとも天国に行ったとも思えん、どこにいるかもわからへんのに、っていうのが素直な気持ちだったんです。そんなところに、鳥のモチーフで自然と(絵が)描けたから、そのイメージで母とつながれる気がしました。鳥やからどっかに飛んでいくじゃないですか。母親は飛んでいったんや、だから、どこにおるかぼくは知らんでもいい。供養かなんかしらんけど、もういい、俺がやるみたいな気持ちになって、毎日、適当な紙に鳥の絵をいっぱい描いとったんです」 手近な紙にびっしりと、埋め尽くすように鳥のモチーフを描いた。作品をつくろうとしたわけではなく、母がいない時間を埋めるように、ただ無心で手を動かした。
この鳥のモチーフが「挽歌」につながる。休んでいた東京のアートスクールに復帰して、制作を再開。2.5m×5m(のちに6.5mに広げる)のボードの中央に、真っ赤に燃える大きな鳥を描いた。足元には、母が暮らした伊勢の町。無数に飛ぶ小さな鳥たちにも、金のわっかを持たせた。 「この鳥のモチーフなら、自殺というものにアプローチできるかもしれないと思いました。母の身に起きたことを全部引き受けて、外に向けて発表するということを、アートという名でやっていくんや。そんなふうに決意していました」 そのころ、印象的なできごとがあった。弓指さんは、地域の自死遺族会に定期的に通っていた。遺族の人たちが、それぞれの経験や感情を共有する場だ。安易な慰めや励ましはしないのがルールで、「がんばって」は禁句である。 ある日のミーティングで、自分の番が回ってきてひと通り話したあと、「実はぼくは絵を描いていて、母の死を題材にして作品をつくったんですが」と切り出した。