松本サリン事件から30年「みんな敵に見えた」「オウムも警察もメディアも同罪」疑惑を持たれた河野義行氏の苦悩とメディアの責任
1994年、長野県松本市で発生した松本サリン事件から6月27日で30年となる。 猛毒の神経ガス、サリンにより住民8人が死亡、600人以上が重軽傷を負った。 【画像】松本サリン事件の当時のようすをみる 事件発生から1年を経て、オウム真理教による犯行と断定されたが、事件発生直後から現場近くに住む事件の第一通報者だった河野義行さんに疑惑の目が向けられ、警察による取り調べやメディアの犯人視報道が続いた。 当時の警察幹部、そして今も被害者のケアにあたるNPO関係者に話を聞いた。
1994年6月 松本サリン事件
1994年(平成6年)6月27日の夜、松本市の閑静な住宅街で事件は発生した。午後10時40分頃、会社員の河野義行さん(当時44)は自宅の居間で妻とテレビを見ていたが、画面を暗く感じてテレビを消した後、妻が「ちょっと気分が悪い」と言うので居間の床に妻を寝かせた。裏庭の犬小屋からカタカタという音を聞き、様子を見に行くと飼い犬1匹は白い泡を吹いてけいれんしていて、もう1匹はすでに死んでいたという。 居間に戻ると妻がけいれんしてひどく苦しんでいたため119番通報をした。河野さんも物がゆがんで見え、地鳴りのような幻聴が聞こえるなど急激に体調が悪化して妻や子供とともに救急搬送された。
警察の事情聴取と関与報道が続く
河野さんは以前、薬品販売会社に勤めていて自宅にシアン化合物などの薬品があったことや第一通報者であったことから、警察は河野さん宅を事件の翌日、被疑者不詳の殺人容疑で捜索し、参考人として連日、事情聴取した。 また新聞やテレビも河野さんが事件に関与している疑いがあると報じ、病院や自宅に詰めかけた。 7月初めにサリンが検出されたことが公表され、聞き慣れない化学兵器が犯行に使われたことに衝撃が走った。しかし依然として河野さんへの事情聴取は続き、疑惑の目は向けられ続けた。 筆者は事件発生2ヶ月後の94年8月、河野さんを自宅で取材をする機会を得た。 サリンなどを研究する有機合成化学の第一人者だった東京大学の森謙治教授(当時)に同行してもらい、河野さんが保管する薬品でサリンは作れるのか、またサリンは河野さん宅の庭付近で発生したと言われていたが、死傷者の被害状況と当時の風向きや家の構造を照らし合わせ、どこでサリンが発生した可能性があるのかなどを検証した。 取材に応じた河野さんはサリン中毒の影響で床についていることが多いということでパジャマ姿だったが、発生当時の状況などを詳細に答えてくれた。 河野さん宅の薬品ではサリンは作れないこと、またサリンは河野さん宅前の駐車場から庭先の池付近で発生したあと、空気より重いことから地を這うように庭から河野さん宅の縁の下を抜けて、自宅裏の犬小屋から塀や建物を沿うようにして広がり、大きな被害があったアパートや寮に流れ込んだこと可能性が高いことが分かった。 さらに後日の検証では自宅周辺の木々や草の枯れ方からサリンがどこで発生して、どこを狙った可能性があるのか、科学的な観点から取材を続けた。 インタビューの最後に河野さんに逮捕される可能性について聞いた。「容疑者扱いの捜査では協力できない。疑惑を晴らして早く元の生活に戻りたい」と思いを語った。
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