〈写真多数〉「もう家に帰れないと諦めています」「行政も頑張ってるけど」…能登半島地震から1年、現地を訪れて聞いた“リアルな惨状”
4.9メートルの津波が襲った白丸地区
能登町白丸地区では、今回の地震で最大4.9メートルの津波が襲い、火災も発生した。1月に取材した際には東日本大震災の被災地を思い出さざるを得なかった。 しかし、津波と火災により沿岸部は壊滅的な被害を受けていたにもかかわらず、2024年1月14日の時点、つまり震災発生から2週間程度で集落内の道路が概ね通れるようになっていた地域だ。 当時、津波に破壊された建物や車が打ち上げられていた海岸には、現在、フレコンバッグが並べられ、沿岸部の景色が大きく変わっていた。倒壊した家屋の撤去が進み、更地が目立つ。海辺で作業していた男性に話を聞いた。 前回訪れた際、白丸地区の道路復旧が早かったことについて話を聞くと、意外な返答があった。
独自に行われた道路啓開
「支援団体の人たちが道を開けてくれた」 発災の翌日、1月2日に民間非営利団体である災害支援NGOが能登町に駆け付け、3日には白丸地区にも物資を届けてくれた。5日にはダンプで重機を持ち込み、瓦礫で塞がっていた道路を開けてくれたというのだ。 1月2日や3日といえば、道路啓開が進まず、消防や自衛隊といった救助機関であってもなかなか被災地に入れなかった。そんなタイミングで民間の支援団体が現地に物資を届け、5日には重機を持ち込み道路啓開を独自に行っていたというのだ。 道路啓開は通常、国や県が業界団体に依頼し、自衛隊や消防、警察とも連携しながら地元の土建業者が中心となり実施される。民間団体であるNGOが、命の道を切り開く道路啓開を独自に行っていたということに、驚きを隠せなかった。 いち早く駆け付けた支援団体が住民の要望を聞き、それを元に必要な物資を持ち込んだり、重機で道路啓開を実施してくれたという。NGOの人たちは、昼は支援活動を行い、夜は住民と話し合いをして要望に沿った活動をしてくれた。寒い中で作業を続け、車の中で寝泊まりする彼らの姿を見て、男性は少しでも暖まってもらおうと被災した自身の建屋を提供した。NGOの活動は現在も継続しており、農業や林業といった生業の支援にシフトしているという。 「行政も頑張ってるけど、今のことだけで精いっぱい。先まで見てない」と男性は言う。 発災から時間が経ち、復旧・復興の主体は市町といった地方自治体が担っている。しかし、能登半島の自治体は、どこも規模が小さい。職員の数が限られ、専門的な知識や災害対応に長けた職員も少ない。全国の自治体から応援の職員もきているが、受け入れる側の規模から限界もある。 また、小規模な地方自治体では予算も限られる。男性は、町の職員に要望を伝えに行くが、予算を理由に断られることが多いという。「町が財政破綻しないか心配だ」とも話す。こうした事情から、職員は精いっぱい頑張って疲労しきっているが、復旧が思うように進まない現実があるようだ。 4.9メートルの津波が襲い、火災も発生…甚大な被害を受けた能登町白丸地区が“恐るべきスピード”で道路啓開できた“意外な理由” へ続く
鹿取 茂雄