2回の経営破綻から従業員900人へ。人口1万人の過疎地で奮闘する中川敬文の仕事術【HOW I WORK】
2回の経営破綻を残り超え、従業員1000人近くに
──今は宮崎ですが、もともと東京時代はどのようなことをしていたのでしょうか? 関西学院大学を卒業後、化粧品会社のポーラやコンサルティング会社で働いていました。そこで新規事業の立ち上げや「CI(企業のアイデンティティ)」「VI(視覚的アイデンティティ)」の業務に従事しましたが、自分には合わないと感じていました。 そんなとき取引先だった新潟県上越市の会社の社長さんから、日本一大きなショッピングセンターを作るという構想を聞きました。 手触り感のある仕事にコミットしたいと感じていたタイミングだったので、上越市への移住を決断。妊娠していた妻とともに生活をはじめました。 ──奥さんと新潟に。大きな決断をしましたね。 ショッピングセンターは結果的に成功し、メディアで取り上げられるなど一定の成果を上げましたが、社長が投資ジャーナルに騙され経営危機に。社長が雲隠れしてしまい、僕が矢先に立つことになりました。 その後1年近く、自転車操業でなんとか乗り越え、引き取ってくれる人が見つかり、僕は疲れ、東京に戻りました。 ──波瀾万丈すぎます…。東京に戻った後は、どうされたのでしょうか? 東京に戻った後、建築設計事務所であり、まちづくりの企画や運営を手がけるUDS株式会社に入社しました。10人目の社員として、ベンチャー企業の成長に貢献し、10年で400人規模に成長しました。 しかし、サブプライム危機の影響で会社が破綻…。民事再生となり、コクヨの支援を受けることとなりました。 ──2回も経営破綻を経験するなんて、ドラマでもなかなかないですよ…。 その後、第2期UDSとして新たにスタートし、従業員1000人規模の会社まで再生、成長したところで、退社をしました。 中でも、キャリアのハイライトはキッザニアの日本進出を手がけたことです。メキシコ発祥で日本の事業会社にUDSが筆頭株主として出資、僕は取締役として入り、開業までの実務を担っていました。