世界自然遺産の屋久島に、いまなぜ「THE NORTH FACE」だったのか!?【前編】
語り部の案内で、宮之浦の“過去といま”を知る
そんな光景を眺めつつ、取材班は「ぶらぶら宮之浦」の語り部・長井三郎さんのガイドで、宮之浦集落を散策した。長井さんは同集落の生まれで、雑誌の編集者や新聞記者などたくさんの職を経て、いまは民宿「晴耕雨読」を経営する地元案内の達人。屋久島に関する著書もある。
彼の口上(説明)は立て板に水のごとく、軽妙でユーモアたっぷり。まず案内されたのは、益救神社だ。 「社殿は江戸時代の1685年、薩摩藩によっていったん建てられましたが、1945年にアメリカの爆撃で消失、戦後の1954年に立て直されました。かつてはこの本殿の裏を森林鉄道が走っていました。縄文杉のある高塚山から鉄道が木を運んで下りてきて、いまは環境文化センターになっている広場、あそこは昔、貯木場だったんで、いったんそこに置かれ、船で鹿児島に運ばれたのです」
メモを見るでもなく、スラスラ語る長井さん。こんな調子で、この地域の住宅の屋根の傾斜が他地域に比べ緩やかなことも教えてくれる。 「台風が多いこの地域では、こうした『3寸5分勾配』の緩い傾斜の屋根にして、強風にまともに受けることなく、しかし雨水は流れるように工夫しているのです。これなら屋根を修理するときも楽に、安全に作業できますしね」
ブラブラ宮之浦ツアーを終え、宮之浦側にかかる湯川橋の夕景を眺めながら思う。この豊かな自然と人びとのまちに、アウトドアのプロ中のプロ、ザ・ノース・フェイスが加わったことは、きっと吉と出るに違いないと。 ──【中編】に続きます── Photo:横江 淳、Text:FRaU