妻と妾を同居させた渋沢栄一は68歳にして子どもを作り総勢17人以上…今なお政財界に広がる華麗なる家系図
新1万円札の顔・渋沢栄一は女好きの艶福家としても有名だ。経営史学者の菊地浩之さんは「正式に結婚した妻は2人、他にも女性はいて、妻と暮らす家に妾も住まわせた。子どもは少なくとも17人いて、その子たちは政財界の大物と婚姻。栄一の子孫たちは現在も企業の社長、役員などを務めている」という――。 【画像】晩年の渋沢栄一(子爵)。左は見送りの兼子夫人=1929年12月19日(日本電報通信社撮影) ■妻・千代、後妻・兼子の間に6男4女が生まれた 2024年7月、40年ぶりに新札が登場した。新1万円札の表面を飾るのは、渋沢栄一(1840~1931年)だ。 栄一は500社とも数えられるほど、精力的に会社を作っていたのだが、私生活では子どもをたくさん、こしらえていた。こちらの方も精力的で……。 栄一は1858年に18歳で、イトコの千代(1843~1882年)15歳と結婚。2男3女をもうけた(年齢は満年齢)。千代に先立たれると、翌1883年に15歳年下の兼子(1852~1934年)31歳と再婚、5男1女をもうけた(★は千代の子、☆は兼子の子)。 ---------- 長男・渋沢市太郎★ (1862~1862年) 早世 長女・穂積(ほづみ)歌子★ (1863~1932年) 穂積陳重(のぶしげ)の妻。宇多ともいう。 次女・阪谷(さかたに)琴子★ (1870~1925年) 阪谷芳郎の妻。ことともいう。 三女・渋沢糸子★ (1871~1871年) 早世。伊登ともいう 次男・渋沢篤二(とくじ)★ (1872~1942年) 息子・渋沢敬三郎☆ (1883~1883?年) 早世 三男・渋沢武之助☆ (1886~1946年) 四男・渋沢正雄☆ (1888~1942年) 四女・明石(あかし)愛子☆ (1890~1977年) 明石照男の妻 五男・渋沢秀雄☆ (1893~1984年) 六男・渋沢忠雄☆ (1896~1897年) 早世 ---------- ■子だくさんだったが10人中4人は幼くして亡くなった 計6男4女が公式のお子さんである――のだが、足し算をすると、男子が1人足りない。兼子の第1子が早世してカウントされていないためなのだが、そもそもその子は再婚した年に生まれているので、取り扱いが微妙ではある。 栄一の孫・鮫島(さめじま)純子(すみこ)は、その著書『祖父・渋沢栄一に学んだこと』にて父親の正雄が栄一の四男で「栄一と後妻兼子の三番目の男の子」と記し、「兼子は結婚後、流産、新生児夭折が続き」、正雄の兄武之助が「三男」だと記している。「新生児夭折」が敬三郎なのであろう。 ちなみに、筆者は渋沢栄一の曾孫(渋沢姓ではない)にお目に掛かったことがあるのだが、その方によれば、6男4女のうち、早世していない7人の子女の末裔を「一族会」のメンバーとしているそうだ。