日本を真の民主主義国へ「対話のある社会」をつくろう
一人ひとりの力で民主主義の足腰強化を
「対話が続いている間は殴り合いは起こらない」 ベルリンでヴァンゼー湖の周りを旧知のドイツの友人と散策していた時に言われた言葉です。あれから時が過ぎ、私はこの言葉から「戦争・暴力の反対語は、平和でなく対話である」と考えるようになりました。 ジョン・F・ケネディ大統領の弟、ロバート・ケネディ氏は『13日間 キューバ危機回顧録』(中公文庫)の中でこう記しています。 キューバ危機の究極的な教訓は、われわれ自身が他国の靴をはいてみる、つまり相手の立場になってみることの重要さである。(中略)彼の慎重熟慮を導いたものは、フルシチョフを侮辱したり、ソ連に恥をかかせたりしないという努力であった。 ソ連がキューバにミサイル基地を建設しかけた時、フルシチョフとケネディは、人間と人間をかけた必死の対話を行い、ぎりぎりのところで、第三次世界大戦は避けられました。対話とは、戦争・暴力を防ぐ、人類が持つ特権の一つなのです。 人間は生まれた時から大人の話しかける対話によって言葉を知り、他人とつながり、対話によって成長し、よりよい人生を可能にしてきました。したがって、対話は教育の土台であり、相互理解の培養土であり、民主主義の生みの親でもあるのです。 振り返ると、軍国主義時代の絶対服従の社会では、大人たちは周りを見渡して、ひそひそと話をしていたものです。子どもが「お腹がすいた」と言っても、「戦場の兵士を思え」と叱責される有り様でした。 対話や討論がない社会とは、支配者、権力者、企業経営者らにとってこの上なく都合がいい社会です。誰も批判者がいない沈黙の社会ですから。日本を戦前のような時代に戻してはなりません。 そんな思いもあり、私の地元である東京・練馬区の大泉で、社会的な問題について市民が語り合う「対話的研究会」を2010年から始め、今でも毎月1回開催しています。こんな対話の場が、全国で駅の数ほど、バス停の数ほど増えてほしいと思います。 21世紀を生きる私たちはこれからも様々な試練に直面するでしょう。その時に人間が考えなければならないことは、地球規模で起きている気候変動や新たな感染症、戦争・紛争などに対処していくためには、人々が「連帯する」ということを覚えない限り、解決することはできないということです。一国だけで平和な世界をつくることはできません。 日本が真の民主主義国であるならば、たとえ小さなことでも変えられることはいくつもあります。武力や威嚇ではなく、日本らしいやり方で世界に貢献していく。やり方は一つではありません。では、どうすればよいのか─。そんな対話が日本中のあちこちで始まり、一人でも多くの人が政治や社会問題に関心を持ち、自分の考えや意見を言える社会が到来することを願ってやみません。そうすることで、日本の民主主義の足腰は強くなり、希望をもって未来に向けて歩み続けることができると、私は信じています。(談)
大城慶吾