日本を真の民主主義国へ「対話のある社会」をつくろう
対話するドイツ人対話しない日本人
また、ドイツではあらゆる場所で人々による「対話」が盛んでした。 中学校では各政党から代表者を一人ずつ呼んで、生徒たちと代表者が対話するということが授業の中に組み込まれていました。 「今、なぜ、自分の姉は失業しているのか」「なぜ、地下鉄の運賃が上がったのか」など内容は実に様々で、質問しない生徒は一人もいませんでした。それに対して、代表者は丁寧に答える。日本でもこんな授業をすれば政治家も鍛えられると思いますが、今の日本の政治家にこんなことができるでしょうか。 列車の中で隣り合わせになった人とでも社会問題や政治問題を話すことはごく自然ですし、市場の人たちなんて、一人が政治の話をし始めると、みんな商売そっちのけで熱心に「対話」していたのも印象的でした。 翻って、日本はどうでしょうか。私には、「対話が喪失した社会」だと思えてなりません。 そもそも、議論と対話は似て非なるものです。対話は、議論と違い、相手を言い負かせるものではありません。お互いが上下の関係でなく、平等な立場で人格と人格が話し合う言葉です。対話は、「感情」、「理性」、「沈黙」などを含め、その人の体全体から出てくる「全人格」による話し方です。時には普段なら流すことのない「涙」だって入ってもいい。相手を意図的に同意させたり、ある結論に引き込もうというような、やましい言葉で話し合うものではありません。形式にとらわれない、自分の言葉、自由な言葉です。 一方、日本の政治家は国民との対話が重要だと言いながら、一方的な説明で終わることが多い。国民を集めた説明会でも、会場から出た意見が政府の政策に反映されることはほとんどなく、対話とはいえないものばかりです。パブリックコメントなども、ただ出させるだけです。 企業や行政でも、一方的な指示・伝達・通達が溢れています。もちろん、組織ですから、それがあってしかるべきですが、一方通行であらゆることがマニュアル化され、タイパ、コスパの成果主義が優先された結果、命令はあるけれど、対話がどんどん失われているように思います。 それは、自立した個人も対等な人間関係もない軍隊の文化が社会全体に浸透していた戦前と同じです。