貧しき船乗りの青年が22個の爆弾で9人を殺害…「血の金曜日事件」はなぜ起きたのか
1998年に終結した北アイルランド紛争は、多数派のプロテスタントと少数派のカトリックとの間の宗教・政治的対立とされる。和平合意から20年後の2018年にアイルランドの西ベルファストを訪れたシカゴ大学教授のクリストファー・ブラッドマン氏は、そこでイスラエルとパレスチナ国家の旗を見かけたという――。 【写真を見る】グラフィティアートが切ない イスラエルが建設を続ける分離壁 (前後編の前編) *** ※この記事は、『戦争と交渉の経済学 人はなぜ戦うのか』(クリストファー・ブラットマン著、神月謙一訳、草思社)の内容をもとに、一部を抜粋/編集してお伝えしています。
他者を誤認識する──誤った投影と誤った解釈
労働者階級のプロテスタントが住むシャンキル地区では、至るところに水色の「ダビデの星」(イスラエルの国旗)が翻ひるがえっていた。少し歩いて、今でも夕暮れになると施錠される平和の壁の門をくぐると、ベルファストのカトリック地区の中心であるフォールズ・ロードに出る。その周辺の家々や商店の外には、今度はパレスチナ国旗のペナントがはためいていた。 人々が、イスラエルとパレスチナの根深い敵対関係を見て「そうだ、彼らと似ていることを世界に知らせよう」と考えるとは、何と因縁が深いのだろうと思ったのを覚えている。 第二次世界大戦後の西ヨーロッパで起きた最悪の紛争の1つである「トラブルズ」(北アイルランド紛争の婉曲表現)の始まりを特定するのは難しい。ほぼ1000年前に始まった、イングランドによるアイルランドの征服と植民地化から説き起こす人もいる。また、第一次世界大戦の頃に、カトリック教徒が主体のアイルランド人が、プロテスタントが主体のイギリス人支配者に対して、ついに独立を要求したときに始まったと考える人もいる。 1916年に、イギリスはこの「共和主義」運動(連合王国からの独立を目指すので共和主義と呼ばれる)を厳しく弾圧し、それがアイルランド全土を巻き込んだ長い紛争の発端となった。ようやく紛争が終わったのは、1922年にアイルランド島の大部分を占めるアイルランド人の独立国家が成立したときだった。 だが、プロテスタントが多数を占めるわずかな州がイギリスとの連合体に残った。それらの州は「北アイルランド」という新たな国を作り、首都をベルファストに置いた。