「“ただドラマをやる人”で終わっちゃうと思った」朝ドラ出演の57歳俳優が芸人活動を再開したワケ
R-1準優勝を見て「うわー、きたよ」
――小浦さんがピンネタを作り始めたのは、「R-1ぐらんぷり2008」の数年前からですか? 田口:そうですね。たぶん、舞台の中で「ピン芸人ならこういうことがやれる」みたいなことを何本か試してたんじゃないですか。もうその当時は、カッコいい時代から打って変わって太ってたんですよ。だから、俺のことを「最強のライバルだ」って言いいながらやってました。人生って面白いですよね。 芋洗坂係長としてR-1決勝に出る前日、俺に電話が掛かってくるんですよ。「決勝まで残ってる」って言うから、「すげぇじゃん! お前、絶対やらかしてこいよ。絶対大丈夫だから」って伝えて。そしたら、準優勝したんですよ。あのときは嬉しかったですね、放送を見ながら「うわー、きたよ」って。 ――「やっと」という感じでしょうか。 田口:小浦は自分で劇団を作ったりとか頑張ってる時期があったんです。しかも、メインの劇団員が2人とかだし、2つの劇団をやったので大変だったと思います。 芝居って時間と労力が掛かるうえに、本当にお金にならないんですよ。その期間も観客として観に行ったりはしてたんですけど、なかなかうまくいかないのはわかるし。そんな中、芋洗坂係長でバーンといったので本当に感慨深かったです。 さまぁ~ずとかもそうだけど、本当に苦楽をともにした同志がグーッと売れていく姿って何度も見てきたから。同期でも後輩でも、才能のある人たちを見ると「今は売れてなくても、この人は絶対大丈夫だ」っていうのが僕にはわかる。だから、ずっと相方に対する心配はなかったですね。
地元の博多を一回振り返ってみてもいいのかな
――これまでに田口さん自身のターニングポイントはありましたか? 田口:バラエティーって私生活を切り売りする部分もあるじゃないですか。だから、「なるべく役者は出ないほうがいい」と思って、番宣以外はほぼバラエティーに出ないって時期がずっと続いてたんです。けど、43歳ぐらいのときに「自分のことを表現してもいいのかな」と感じ始めてシフトチェンジしたんですよね。 例えば自分のライブで、テレビでは絶対言わないような家族のこととかを表現してみたりとか。その文脈があったから、「30年ぶりにテンションでネタをやってみよう」ってことにもなったんです。まだこれからいろんな表現をしていくと思うけど、60歳を前に自分の足跡みたいなものをアウトプットする年齢にきてる気はしますね。 ――ちなみに、43歳のときに何かきっかけがあったんですか? 田口:厄年になって、自分自身があんまりいい方向に行ってないなって気がしたんです。「何かやらなきゃ」と考えたときに、「若い頃はガツガツ東京で生きてきたけど、地元の博多を一回振り返ってみてもいいのかな」っていう気持ちにすごくなって。 とにかく僕と何かしらの関係がある福岡出身の仲間たちと地元で何かやろうと。僕はすぐ先輩風吹かせるので、いろんなところで「じゃ手伝いーね」とか言いながら協力者を募って、博多弁の歌を歌う『8343(やさしさ)』ってバンドを作ったりしたんですよね。 いまだにそのバンドは続いてるし、今後もやれる時期にポツンポツンとやっていきたいなと思ってます。