《アルゼンチン》寄稿=水村美苗著『大使とその妻』とブラジル日系社会との関係=ブエノスアイレス在住 相川知子
ブラジル日系社会の光と影/水村美苗がリアルに描く多様な背景
その中でもとくに本作品には、南米ではアルゼンチンやチリの街並みが紹介される。特にブラジル日系社会の歴史に基づき、多様な複雑な背景のある事情がリアルに描かれている点に注目していただきたい。ブラジルの日系社会が抱える課題や挑戦が深く掘り下げられ、物語に深みが加わっている。これは、ブラジル日報の深沢編集長とのメールによる対話を通じて得られた賜物である。水村氏のこの探求精神こそが、読者に共感を呼ぶ要因となっているのである。 朝日新聞のインタビューで水村氏は次のように答えている。 「谷崎が『春琴抄』でやったように、今の日本を入り口にしながら、今はない日本をたぐり寄せたい。どこにもない日本に幻想を抱く人たちの物語を考えたときに、ブラジルの日系人が思い浮かびました」 実は水村氏はブラジルに取材旅行に行こうと考えていた矢先にコロナ禍に突入した。この歴史的事実は物語の現実と重なる。コロナの時期の私たちの不安定な気持ちを小説という形で書き残してくれたのだ。
水村美苗氏からブラジル日報読者へのメッセージ
『大使とその妻』は、単なる日本文化礼賛や、日系人の郷愁にとどまらず、読者に日本人の本質を問いかける一冊となっている。同時に、日系人の「Nikkei」としての生き方や、異文化の中で失われゆく日本語や文化への惜別の念を描き、いかにそれを次世代へとつなげていくかの課題も浮き彫りにしている。 ブラジル日報の読者も、かつて日本から遠く離れた異国の地に渡った先人達を思い起こし、どのように「日本」を守りながらもブラジルに根を張り、独自のアイデンティティを築いてきたかを再認識することができる。 水村氏からのブラジル日報の読者の皆さんへのメッセージでこの『大使とその妻』の読書の薦めを締めくくりたい。 「父親の仕事で日本を離れてニューヨークに行ったのは今から約六〇年前、私が十二歳のときです。以来、異国の空のもとで、日本を想いながら、日本語で日本文学をずっと読んできました。今回の本は、昔、日本を離れてブラジルに行った方々、そしてその子孫の方々のことを想いながら、そして時には身を重ねながら書いたものです。異国の空のもとで日本語を読む方々にこの本を手に取っていただければ、これほど嬉しいことはございません」 こんな素晴らしい小説の題材になれるほど私たちは立派な歴史を刻んできたんだぞと、天上でほくそ笑んでいるだろう移住の大先輩達を思い出さざるを得ない。 (ブエノスアイレス11月10日 相川知子)
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