子どもが49人いた天皇も 平安の「一夫多妻制」の裏にあった苦しみや人間的な葛藤
多くの妻を娶り、ハーレムのようにも思える平安時代の天皇。しかし、その内情は気楽なものではなかったそう。平安文学研究者・山本淳子氏の著書『平安人の心で「源氏物語」を読む』(朝日選書)から一部を抜粋、再編集し、紹介する。 【写真】紫式部の絵をもっと見る * * * ■後宮(こうきゅう)における天皇、きさきたちの愛し方 平安時代の天皇は一夫多妻制である。これを私たちは「英雄色を好む」と受け取りやすい。権力があるから次々ときさきたちを娶って、よりどりみどりで相手をさせているのだろうと。確かに平安時代、特にその初頭には、きさきの数は非常に多かった。例えば大同四(八〇九)年から弘仁十四(八二三)年にかけて天皇の位にあり、譲位後は嵯峨野(さがの)で高雅な上皇生活を送った嵯峨(さが)天皇(七八六~八四二)には、名前が判明するだけで二十九人ものきさきがいた。これを聞くと「平安時代の天皇になってみたい」と、ひそかに思う男性もいるかもしれない。しかし、それは思い違いだ。平安時代の天皇の結婚は、欲望を満たすのが目的ではない。確実に跡継ぎを残すこと、一夫多妻制はそのための制度だった。嵯峨天皇もさすがに子だくさんで、男子二十二人女子二十七人を数える。子どもの名前が覚えきれたのだろうかと、冗談のような心配さえ浮かんでしまう。
だが、子だくさんなだけでは天皇として不合格だ。跡継ぎとは次代の天皇になる存在なのだから、どんなきさきの子でもよいというわけではない。即位の暁には貴族たちの合意を得て円滑に政治を執り行うことができる、そんな子どもをつくらなくてはならない。それはどんな子か。一言で言えば、貴族の中に強力な後見を持つ子どもである。ならば天皇は、第一にそうした跡継ぎをつくれる女性を重んじなくてはならない。個人的な愛情よりも、きさきの実家の権力を優先させることが、当時の天皇の常識だった。 こうなると、天皇が「よりどりみどり」という訳にもいかないことも、推測がつくだろう。貴族たちは、天皇がしかるべき子どもをつくることを期待している。それはしかるべき家から送り込まれた、しかるべききさきと、しかるべき度合いで夜を過ごすことを期待し、見守っているということだ。摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)、大臣、大納言(だいなごん)。天皇はきさきの実家を頭に浮かべ、その地位の順に尊重しなければならない。つまり、その順で愛さなくてはならない。天皇にとって愛や性は天皇個人のものではなかった。最も大切な政治的行為だったのだ。 こうした当時の常識に照らせば、桐壺帝(きりつぼてい)が「いとやむごとなき際にはあらぬ」更衣(こうい)に没頭したことは、掟破りともいうべき許しがたい事件だった。皇子誕生は政界の権力構造に係わる。実家の繁栄を賭けて入内(じゅだい)したきさきたちが怒るのは当然のこと、「上達部(かんだちめ)、上人(うへびと)」など政官界の上層部が動揺したのも、これが自分たちの権力を揺るがしかねない政治問題だったからだ。