元「アイマス」の“ガミP”こと坂上陽三氏ら著名業界人が語る“裏話”とゲーム業界のこれから【レポート】
突然任された「アイマス」家庭用プロデューサーの役割、「総合力で作ったゲーム」
次ぐテーマは、これまで経験してきたことで一番印象深いこと。坂上氏は、初代プレイステーションのローンチタイトルとなった「リッジレーサー」を挙げる。その当時、電気機器のメーカーがゲームハードをリリースするも不調だったことから、ソニーが後発ながらゲーム機に参入するということで話題となっていた傍ら、当時の社内的には「どうだろう?」という空気感もあったと振り返る。 さらには新しいハードというところで、当時フルカラーで出せるとうたっていたが、実際にフルカラーを出してみると重くなってすぐ処理落ちしてしまうというような苦労もあったという。そんな「リッジレーサー」が大ヒットしたことで空気感も変わったこともつけ加えた。 また、坂上氏といえば…な話題として「アイドルマスター」に関しても触れられた。坂上氏は初代作であるアーケード版の移植作で、家庭用向けとしては最初に発売されたXbox 360版「アイドルマスター」のプロデューサーとして携わって以降、同シリーズの総合プロデューサーを2023年3月まで長年務め、ファンである“プロデューサー”から“ガミP”の愛称で親しまれている。 坂上氏は、PS2用ソフト「デス バイ ディグリーズ 鉄拳:ニーナ ウイリアムズ」というアクションアドベンチャーゲームを手がけ、3年がかりで開発しワールドワイドで120万本販売したのの、開発費がかかってしまったため、次につながらなかったことを語る。そんなときに上司から、アーケードから家庭用に移植したいものがあるということで、何も知らずに打ち合わせに行ったところ、当時の社内で「アイドルマスター」の製作委員会的な組織の立ち上げがあり、そこで「家庭用のプロデューサーです」と、突然言われたことから始まったと振り返る。 ただ、当時ナムコの開発には、女性キャラクターをメインにした、いわゆる“美少女もの”の育成ゲームというものが根付いてない状態だったため、人集めに苦労したという。さらには「坂上さんに『アイドルマスター』みたいなタイトルできるわけがない」という声も聞こえてきたとし、そこで奮起したという。 そして、そんな状況でも「わからないけど手伝う」と言ってくれた方がたくさんいたことに対して、坂上氏はありがたかったと口にした。 「デス バイ ディグリーズ」に携わったスタッフが“坂上さんが困っているから”といって手伝ってくれたり、「鉄拳」や「ソウルキャリバー」のモーションを担当していた方からは、対戦格闘ゲームはモーションが短い一方で、「アイドルマスター」の“歌って踊る”モーションが長いということで作ってみたいと手を挙げてくれたこと、またサウンドチームからは、当時ゲームにおいて歌唱のある音楽を手がけることが少なく、こぞって楽曲制作に参加したとも振り返った。 そのうえで坂上氏は、「僕が頑張ったというよりは、誰かひとりの力ではなく、総合力で作ったゲームであって、そのことを経験できたのはすごくよかった」とコメントした。 一方の馬場氏は、ゲーム制作に取り組むもチームメンバーは少なく内製はできない状態。関係各社に回ったり探したりして立ち上げるという形であったため、ひとりで企画書や仕様書作成のみならず、開発会社探しや打ち合わせなどの立ち会い、権利元への営業、ゲーム筐体の生産工場にいたるまで足を運ぶという“プレイングプロデューサー”“ゆりかごから墓場まで全部やる”と表現するような具合で、ゲーム制作を進めていったという。 それゆえ、合併して内製でチームを組成したとき、同じ社屋にこれだけのスタッフがそろっていることに感動したことを振り返る。あわせて外部との協力による制作と、内部制作の両方を経験したのは学びになっていると語っていた。