藤岡弘、芸能界を選択した4人の子どもへの思い 父親としての矜持「親の背中を見て子は育つ」
『レッツゴー!! ライダーキック』を作曲した菊池俊輔さんとの思い出
初代仮面ライダーを演じた俳優、武道家の藤岡弘、(78)が、アニメ・特撮テレビ音楽の巨匠、故菊池俊輔さんのメモリアル公演『菊池俊輔 音楽祭』(23日、サントリーホール)に出演する。自身の名前を世に知らしめた1971年、特撮テレビドラマ『仮面ライダー』の主題歌『レッツゴー!! ライダーキック』を披露する。今では4人の子どもたちが俳優、モデルになり、“芸能一家”の父でもある藤岡が53年前の作曲家との思い出などを語った。(取材・文=大宮高史) 【写真】美男美女だらけ…藤岡弘、4人の子どもと集合ショットに反響 ――『レッツゴー!! ライダーキック』を作曲された菊池俊輔さんとの思い出は。 「もう53年も前ですが、初めてお会いした時、緊張と不安でいっぱいでした。何より私はそれまで歌ったことすらありませんでしたから。菊池先生のところにお伺いして、初めてレッスンを受けたのが、役者を初めて音楽に触れた最初の経験です。ところが、そんな素人の私をレッスンしてくれた先生が、『これはヒットするよ』と優しく言ってくれたのを覚えています。何か先生の中で直感があったのかもしれません。すごく包容力のある方でした」 ――現実にドラマ、主題歌とも大ヒットしました。 「私は映画ざんまいの子どもで、愛媛の田舎町で何百本という映画を見て育ってきましたが、音楽の方はさっぱりでした。それでも、仮面ライダーとしては『これを歌えなければ主役は務まらない』と自分を律していました。そんな気持ちで、石ノ森章太郎先生が書かれた歌詞に勇気づけられただけでなく、夢が広がりましたね。ストレートに『世界の平和を守る』フレーズが繰り返されていて、先生が原作マンガに込めたメッセージまでスッと胸に入ってきました」 ――藤岡さんの芸歴の中で、語るに欠かせない出来事ですね。五社協定の暗黙ルールを超えての出演でした。 「それまで松竹映画、ニューフェースとしてデビューし、数本の主演も経験しました。あそこは女優王国で、若手男優には文学青年的な役どころが求められていました。竹脇無我さんと香山美子さんで“ダイナミック・カップル”、田村正和さんと中村晃子さんで“モズ・カップル”、そこに私と新藤恵美さんで“チャーミング・カップル”として売り出していただきました。そんな中で、初めてアクションに挑んだ作品が『仮面ライダー』で、原作を読んでもこれを私ができるイメージはありませんでしたが、武道の経験と大型二輪免許を持っていたことが運よく助けになりました。スタントマンなしでバイクに乗り、技闘・アクションもできるようになりました」 ――その撮影中、バイクの事故で大腿骨を骨折。俳優生命に関わる大けがをされていますが。 「また25歳なのに、俳優を志してからは尋常でない経験ばかりしてきました。上京した時点でアルバイトをしつつ、俳優養成所や劇団の門を片っ端からたたいてきました。そうやってやっと映画俳優になれて、主演もいただいたところにあの大けがです。もともと安定とはほど遠い人生を送っていましたから、いくら『再起不能、俳優復帰は不可能』と聞かされても、絶望感はなかったですね」 ――そのケガの際、ベトナム戦争で軍人のために開発されたばかりの手術を試しに受けたと聞いています。 「私が『先生、お願いします』と自分の意志でその手術を受けると決めました。『失敗したところで俳優を続けられなくなるどころか、障害が残るだけだ』と考えれば、手術を受けない選択はありませんでした」 ――それほどまでに俳優に憧れた原体験は、少年時代にあると思います。どんな映画を見ていたのでしょうか。 「洋画も邦画も数えきれないほど見てきましたが……邦画ですと『王将』(1962年)の三國連太郎さんの存在感に大きな刺激を受けました。三國さんによる棋士・坂田三吉の生きざまが鮮烈に記憶に残っています。今でも村田英雄さんが歌った『王将』の曲を聴くと、当時の気持ちがよみがえります。それに私は時代劇もたくさん見ていて、『七人の侍』も、『宮本武蔵』(61年)も好きでした。『宮本武蔵』は萬屋錦之介さんがまだ中村錦之介と名乗っていた頃の主演映画ですが、錦之介さんの武蔵が敵と対峙する雄姿にも憧れを覚えました」 ――洋画も華やかだった時代ですね。 「アメリカ映画はウエスタン全盛期。フランス映画ではアラン・ドロンやリノ・ヴァンチュラと格好いい男たちが輝いていました。『映像は国境を越える』の言葉通り、少年時代の私は映画を通じて世界を知って、希望を抱いていました。田舎育ちの私が成長するためには、映画でも何でも、世界の情報に触れる必要があったのです。アルバイトを終えて深夜の電車に乗ると、週刊誌から本から新聞まで、何でも網棚に捨ててある。それを電車の先頭から最後尾まで歩いて拾い集めて、世の中の動きを覚えていました。あまりにもやりすぎるから、車掌さんに顔を覚えられて『これも持っていけよ』とたくさん忘れ物をもらったことが何度もありました。今でも毎日、新聞に目を通し、記事の切り抜きをして情報収集をしているんですよ」 ――情報といえば、藤岡家のYouTubeチャンネルも3年前から運営されています。 「YouTubeを始めたのは子どもたちのアイデアからです。というのも、『お父さんの考え、生き方をもっとたくさんの人が知ってほしい』と言ってくれるようになりまして。私自身は活字、ネットの情報にも接して、子どもたちと議論を交わしてきました。皆、私が父から受け継いだ武道、それに空手、柔道、馬術など、本物の技を体験しています。それらを通じて、日本の伝統や人として大切なことを学んでくれたと思います。私は『仮面ライダー』の後も武道に支えられ、100か国近い世界を巡ってボランティアなど、さまざまな経験をしたりと、濃密な人生を送ってきました。その影響か家族も芯の強い人になってくれました。動画ではそんな藤岡家の様子が少しでも伝わればと思って作っています」