間寛平が人生で一番苦しかった1982年 妻が撮り、娘が宝物だと言ってくれた一枚の写真
僕、『24時間テレビ「愛は地球を救う」』や「アースマラソン」「淀川寛平マラソン」とマラソンのお仕事でみなさんに知ってもらっていますけど、もともとのきっかけを作ってくれたのも、さんまちゃん。 最初は1988年の「スパルタスロン」(246kmのマラソン)に挑戦して、吉本のマネージャーが売り込んでくれても、東京では僕、まったく知られていないから企画が通らない。けれど「もし寛平ちゃんが走るのをリタイヤしても、さんまさんが一緒に出演するなら途中で旅番組に変えられる」と。そしたらさんまちゃん、「兄やん、わかった」とふたつ返事で引き受けてくれて、マラソン番組ができた。それからバラエティにも呼ばれるようになったし、コマーシャルの仕事まで入るようになったんです。 ――ようやく光が見えるようになったんですね。 そうですね。それとバラエティではみんなに助けてもらいました。1991年に『笑っていいとも』で5分間だけやるからとチャンスをもらい、「引きずり女」というキャラをしたんですが、びっくりするくらい客席はシーン。ところがタモリさん(76)や鶴ちゃん(片岡鶴太郎さん・67)がめちゃめちゃ笑ってくれて、そこだけをテレビで映してくれたから、全国の人が、あれが面白いもんやと勘違いしてくれた。 おかげでその年の紅白歌合戦にゲストで呼ばれました。そこで同じネタをやったら、あの大きな会場のNHKホール、史上かつてないほどスベり倒して。今、思い出しただけでも怖くなります。
吉本新喜劇GMとして若手へのメッセージは「『なんとかなるやろう』で乗り切っていこう」
――厳しい芸能界でそんな浮き沈みを経験された寛平さんが、自分の“ふるさと”である吉本新喜劇のGMに就任されました。 今回、会社に頼まれてのことなんですが、若手を育てようということです。僕はただ、お膳立てしてハッパをかけるだけ。一番がんばらなあかんのは芸人です。僕らの頃とは比べ物にならんくらい、若い子は才能もあるし努力もしてる。けれど自分だけの力で成功はできません。助けてもらって僕の現在があるように、ファンやスタッフに感謝することが第一歩。 今後、若い人にとって、大変なことは山ほどあるかもしれませんが、きつい時に僕が言い聞かせていたように、「なんとかなるやろう」で乗り切っていけば、なんとかなるんと違うやろか。また、どんなに悩みがあってもしっかり寝ることやね。 それと崖っぷちに感じても、生きるか死ぬかなんか考えんと、場合によっては「逃げたらええやろ」とも思いますね。「アースマラソン」は2年1か月で帰ってきましたが、もしも僕に返せんくらいの大借金があったら、いろんな国を逃げて逃げて、今でもずーっと走ってまっせ! ――最後に。冒頭紹介したあの写真は寛平さんにとってどういう意味がありますか。 時々あの時代を振り返ることがありますが、そこから必死で這い上がった。苦しかったけど、それがあるから今がある。忘れたいくらいの記憶ですが、もしかすると、あれが僕の原点かもしれません。