間寛平が人生で一番苦しかった1982年 妻が撮り、娘が宝物だと言ってくれた一枚の写真
――大変でしたね。これはその当時の船上写真なんですね。 そうです。鳴門の渦潮ってありますよね。船のデッキからぱっと覗き込むと、ごっつう大きい渦が見える。ぐるんぐるん潮の流れが回っては消え、回っては消え…。思い出すと、それをぼんやりと見ていた、気が抜けたようにね…。その時はもうノイローゼみたいになってしまっていて、もうあかん、もうダメや。頭によぎったのが、この娘の手を引いて一緒にこの渦に飛び込んでしまおう。みんなでいなくなったほうが楽やと。本当にお恥ずかしい話なんですけど、精神的に追い詰められ、おかしくなって、あの時は正常じゃなかった。どうかしていました。 ――そう説明されると、この写真から物悲しい空気が伝わってきます。 そう、嫁がその時の様子を偶然撮っていた。娘は小さかったので当時の記憶はほとんどないと思いますが、最悪な状況から立ち直り、しばらくして、成人した娘に写真を見せて当時の心境を伝えたことがありました。 「この時がお父さん、一番つらかった。信頼している人やいろんな人にだまされて、つらあて…。これは、その時自分がこんなにアホやったんや、と気づかせてくれる写真やねん」と正直に話したら、娘は「お父さんが一番苦しかったことがわかる。これは宝物やね」と言ってくれて、この写真を大事にずっと家に飾ってくれています。 アホなお父ちゃんなのに、家族はよう懐いてくれていますから、本当に感謝しかない。やっぱり家族がいるからこそ、今までがんばってこれたんやないかなと思います。
いろんな人に甘えて、いろいろ助けてもらい、ようやく見えた光
――寛平さんは当時、関西では誰もが知る吉本新喜劇のスター。そんな切羽詰まった時期があったとは知りませんでした。どうやって立ち直ったのですか。 いくつになってもあまえんぼ、やないけど、いろんな人に甘えて、いろいろ助けてもらって少しずつ上がっていくことができた。自分ひとりの力では絶対、無理。なかでも、年下やけど、恩人と言えるのは(明石家)さんまちゃん(66)ですね。 新喜劇を退団して単身上京したのは1989年。けれど関東では知名度がないからまったく仕事がない。たけし軍団に入れてもらおうとしたり、萩本欽一さんを頼ったり、悩んであっち行ったりこっち行ったり。で、いろいろ相談した結果、吉本興業の東京事務所預かりに。でも当時は漫才ブームが終わったあとで、稼げる見込みはなかった。そんななかでも、さんまちゃんの人気はずーっと続いていて、ずーっとすごかったです。 東京の新生活はベッドもタンスも「これ持ってっていい?」と、ほとんどさんまちゃんのお下がりで暮らしていました。さんまちゃん、僕が困ってるのを知ってたんやろな。ある日、「兄やん、借金あるやろ。新しい番組あるから、やる?」と『痛快!明石家電視台』(MBS、1990年開始)に誘うてくれたんです。「じゃあ、頼むわ」言うて、そこからですわ、上向きになったのは。