道長との「駆け引き」に苦しめられた三条天皇
三条天皇が皇太子となれたのは、母方の祖父・兼家の強い後押しによるものという。兼家は、自身に似た風貌の三条天皇をことのほかかわいがったといわれている。立太子は986(寛和2)年のこと。一条天皇の即位に伴って元服、立太子となった。 なお、一条天皇も兼家の孫にあたる。天皇となった一条天皇との年齢差は4つで、皇太子である三条天皇(当時の諱は居貞親王)の方が年上という状態だった。 一条天皇の在位は実に四半世紀におよぶ。病状の悪化に伴い、一条天皇が譲位を決意した1011(寛弘8)年には、三条天皇は35歳を迎えていた。 この時、貴族社会において絶大な権力を手にしていたのは、兼家の息子・藤原道長である。 道長は、三条天皇の即位前年に娘の藤原妍子(けんし/きよこ)を嫁がせている。権力をさらに盤石にするための布石であり、三条天皇との関係強化と見られ、即位の翌年となる1012(長和元)年には、妍子を中宮としている。 一方、冷泉天皇の系統にこだわる三条天皇は、円融天皇の系統である一条天皇に対抗心があったといわれ、政権の独自運営を目論んだ節がある。妍子が中宮となった直後に、寵愛していた藤原娍子を皇后に格上げしたことなどは、自身の権威の最大化を図ろうとしたのかもしれない。娍子は10年以上も連れ添い、4人の子を成すなど、三条天皇にとってかけがえのない存在だったようだ。 しかし、娘を中宮にしている道長にとってみれば、おもしろくない。何しろ、一人の天皇に二人の后がいる一帝二后と呼ばれる状態は異例のこと。一条天皇の時代に、皇后・藤原定子と、道長の娘で中宮・彰子とによる前例はあったものの、このような大事な事案を自分の頭ごなしに行なわれたのだから、三条天皇に対する道長の印象は最悪となった。 道長は、娍子立后の日に、わざと妍子の内裏参入をあてることで抵抗した。道長におもねる公卿がほとんどで、立后の儀式に参列したのはほんのわずかだったという。三条天皇と道長の対立は、これを境に深まっていった。 1013(長和2)年に、妍子は禎子内親王(ていしないしんのう)を出産。生まれたのが女児と聞いた道長は明らかに不機嫌になったという(『小右記』)。この時に生まれていたのが皇位継承権のある男子だったら、道長と三条天皇の関係はいくらか改善していたかもしれない。さらにいえば、道長自身もこれ以上の関係悪化は望んでいなかったのかもしれない。いずれにせよ、以降、妍子は男子どころか、子を産むことはなかった。 そんななかの1014(長和3)年2月に、内裏が焼失。道長は「帝の徳が至らないからだ」といった意味のことを言い放ったという。また、この頃から眼病を患い始めた三条天皇に対し、政務に支障が出るからと、しきりに退位を促すようになった。 退位を勧めるのは当然、一条天皇と彰子の間に生まれた皇子で、自身の孫でもある敦成(あつひら)親王をすぐにでも即位させたいという道長の狙いがあった。その目論見を見透かし、退位を拒んでいた三条天皇だったが、ほとんど失明するほどまでに病状が悪化したこともあり、やがて根負けして応じたのだった。 三条天皇にとって最後の望みは、娍子の生んだ皇子である敦明(あつあきら)親王を立太子させること。道長との激しい駆け引きの末、譲位と引き換えという形で、この希望はかなった。 こうして、1016(長和5)年に三条天皇は敦成親王に譲位。在位期間は5年に満たないものだった。翌1017(寛仁元)年4月に出家。それからまもなくして、崩御した。 その後、敦明親王は自ら皇太子の座を辞退している。この裏に道長の圧力があったことは言うまでもない。
小野 雅彦