「柔らかな反骨心」 関口宏という生き方/2 ライブ=現在(いま)にこだわる「テレビ屋」の矜持 青木理
最終的に萩元と村木、今野らはTBSを離れ、この国初の番組制作会社テレビマンユニオンを創設するのだが、一連の出来事の内幕を赤裸々に描きつつ紡がれたのが『お前はただの現在にすぎない』。あらためてその頁を繰ると、こんな文章が目に飛びこんでくる。 〈テレビジョンに、〝すでに〟はありません。いつも〝現在(いま)〟です。(略)テレビジョンはジャズなのです〉〈「時間」をすべて自ら政治的に再編したあとで、それを「歴史」として呈示する権利を有するのが「権力」とすれば、そのものの「現在」を、as it is(あるがまま)に呈示しようとするテレビの存在は、権力にとって許しがたいだろう〉〈「テレビ、お前はただの現在にすぎない」という否定は、そのまま、こうして一挙に裏返しにされる。「イエス。テレビ=わたしはただの現在でありたい」〉 このテレビ論の古典について、関口さんはビールを傾けつつこう振り返った。 「そうして彼らがテレビマンユニオンを立ちあげたとき、たしか萩本欽一さんが『しびれた』とおっしゃって、株主として参画されたんです。一方の私はまだデビューして間もないペイペイでしたから声もかけられませんでしたが、正直言ってうらやましいな、と思って眺めていました」 ◇ジャーナリスティックな「テレビ屋」 関口さんはしばしばこんな台詞(せりふ)を口にすると前回書いた。「私はあくまでもテレビ屋であって、ジャーナリストではありません」と。たしかに関口さんはジャーナリストではない。ただ、以上のような背景を抱く『お前はただの現在にすぎない』に深く影響されたと回顧する一事に示されるとおり、テレビの世界に「惚(ほ)れこみ」、それを「突きつめ」ようと60年足掻(あが)いてきた関口さんは、テレビメディアの可能性と限界、そしてテレビジャーナリズムが堅守すべき矜持(きょうじ)を知悉(ちしつ)した、極めてジャーナリスティックな「テレビ屋」だと私は繰り返し思う。