「柔らかな反骨心」 関口宏という生き方/2 ライブ=現在(いま)にこだわる「テレビ屋」の矜持 青木理
つまり――と言って関口さんは言葉を継ぐ。 「それがテレビなんです。立て板に水で喋ったり、きれいにやろうと思ったら、むしろテレビの良さはなくなっちゃう。生のライブだから少し間が空いたりして、そこに視聴者の安心感と親近感が生まれる。また、生だからこそハプニング要素があって、その緊張感と面白さが視聴者との共有感にもつながる。番組名物になった手作りフリップだって、どこかでポロッと落ちてしまうんじゃないかとかね(笑)、そういう緊張感が視聴者に共有され、面白く観てもらえるんです」 だから安全の殻などに断じて閉じこもらず、テレビというメディアの真髄であるライブ=生=すなわち「現在」に徹底してこだわる――これはまさに「テレビ屋」としてのテレビ論だが、一方でテレビジャーナリズム論についても、関口さんの慧眼(けいがん)に幾度も唸(うな)らされることがあった。 ◇「現実の戦場に音楽が流れてるか?」 再び番組オンエア前のスタジオ。事前にコメントの打ち合わせをしない関口さんは、項目ごとのコメント役だけ割り振ると、これも番組終盤の名物コーナー「風を読む」のVTRは事前に観せてくれる。要はVTRを観て、何をコメントするか考える時間を与えてくれるのだが、10分弱のVTRは常に関口さんも一緒に観る。 その後に関口さんはスタッフを呼び、頻繁にVTRを手直しさせる。この時点で「風を読む」のオンエアまで2時間を切っているから、番組作りへの飽くなき執念とはいえ、スタッフも毎回緊張と苦労の連続だったろう。そんなある日、滅多(めった)に声を荒らげたりすることのない――少なくとも、私は一度もそんな場面を見たことのない関口さんが、かなり気色ばんだ様子で「風を読む」のVTRについてスタッフを叱責していた。 聞くともなしに聞いていると、どうやらこういうことらしかった。その日の「風を読む」はロシアによるウクライナ侵攻だったか、イスラエルによるガザ侵攻だったか、いずれにせよ戦地や紛争地をテーマに扱っていたのだが、現地の状況を伝える映像に音楽が添えられていて、それに関口さんはかなり強い調子で憤っていたのだった。「おかしいだろ。現実の戦場に音楽なんか流れてるか? 余計な音は入れず、すぐにすべて外せ!」と。