【阪神 火の玉ルーキーズ】ドラ1・伊原陵人(4)大商大で学んだマウンド度胸とハングリー精神
陵人は大商大で、マウンド度胸を学んだ。恩師の富山陽一監督が回想する。「伊原が入学した時に“青春は高校までや。ここへ来たら勝ち方を覚えろ”と言った。伊原は“バッターに絶対勝ったる”という気持ちで立ち向かっていた」。先発でない時は常にブルペンで待機しつつ、“スタンバイOK”と監督へ視線を送っていた。 「いつでも投げるぞ、というのは思っていました。勝負へのこだわりは、より強くなりましたね」 のちにプロ入りする先輩にも鍛えられた。入学時、4年に大西広樹(現ヤクルト)が在籍。智弁学園時と同じく、最上級生に恵まれた。富山監督が、「伊原と大西はよく似ていた」と語るように、同じ奈良県出身で、身長は陵人が1メートル70、大西が1メートル75と決して大柄でないなど、共通点が多かった。1年と4年。学年は離れているが、キャッチボールなど練習をともにした。大西は、当時から陵人のポテンシャルを高く評価していた。 「球の伸びが凄かった。自分の同い年に橋本侑樹(現中日)がいましたけど、1年の時で彼と引けを取らないレベルでした」 2人はよく、車内で投手談議を交わした。大商大野球部は、選手同士が車を出し合って遠征先へ向かう。仲間が運転する車の後部座席で時には2時間以上、陵人が大西を質問攻めにした。「伊原は入りたての頃、強打者に対してカットボールに頼って打たれるところがあった。“俺ら小さいねんから、気持ちで負けたら終わりやで”って、そういう話をしたのは覚えてますね」とは大西の述懐だ。 先輩の教えを生かし、2年秋のリーグ戦に先発として才能開花。3勝、防御率1・01で最優秀投手賞を獲得すると、3年春には先発で5勝、防御率0・29と圧倒的な成績を残し、ベストナインにも選ばれた。それでも、大学では指名漏れを経験した。「自分的にも、実力がまだ足りていないと感じていた。社会人で見返すしかない」。今でもグラブに刺しゅうする大商大野球部の部訓「負けられません勝つまでは」の精神で、2年後のドラフト1位指名につなげた。 富山監督は、あえて「ドラフト1位の称号は捨てろ」と言葉を贈った。「伊原は大学時代、常に挑戦者だった。体は小さいけど、誰にも負けないハートの大きさがある。1位指名ででかい顔をしてたら、足をすくわれる。常に下からはい上がる気持ちでやってほしい」。技術だけでなく、精神面でも大きく成長した大学時代。マウンド度胸とハングリー精神で、プロの舞台でもはい上がる。 (松本 航亮) ◇伊原 陵人(いはら・たかと)2000年(平12)8月7日生まれ、奈良県橿原市出身の24歳。小1から晩成フレンズで野球を始め、主に投手。八木中では軟式野球部。智弁学園では2年春から背番号11でベンチ入りし2年秋から背番号1。3年春に甲子園出場。大商大では2年秋に最優秀投手、3年春に最多勝、最優秀防御率でベストナインを受賞。NTT西日本では2年連続で都市対抗出場。1メートル70、77キロ。左投げ左打ち。