従来の豊かさとは違うがいい時代…実感できたとき、日本の人口均衡がとれる
日本における長期の人口減を考えるTHE PAGE連載「人口減少時代」。歴史人口学を専門とする静岡県立大学長、鬼頭宏氏は、連載の初めに日本の歴史を振り返り、その時代を形づくった経済やエネルギー、生活様式といった文明システムが成熟し、人口支持力の限界にきたときに人口が停滞すると指摘。現在の人口減少は、人口増加・経済成長の好循環が再び始まるための「次の文明システムを準備する、きわめて重要なインキュベーターの時代」と執筆しました。 果たして「次の文明システム」「次の時代」が何か、見えてきているのでしょうか。そしてこの「人口減少時代」から、日本はどのように抜け出すことが予想されるのでしょうか。鬼頭氏に話を聞きました。
江戸幕府成立から150年の人口停滞期を参考にできないか
── 私は割と単純に考えていて、江戸時代の人よりも、少し具体的に次の目標が見えていると思います。今年はちょうど明治元年から150年ですが、江戸幕府が成立してから150年は1753年、宝暦という年代。吉宗の時代が1745年で終わり、その後の家重の時代(1745~60)です。 そのころ何が起きていたか。17世紀は人口が急増し、ものすごく都市人口が増えました。しかし17世紀の終わりには、淀川の上流辺り、近畿地方を中心に森林の枯渇が起きている。土砂が流出して大坂の港が埋まってしまう、と、むやみに木を切るなとか、川の両側を畑にするなという御触れを出しているんですね。 京都辺りの神社仏閣、城を造った木材産地を調べてみると、奈良時代、平安時代までは近畿地方周辺の山で木材を調達できたんですが、江戸時代のそのころになると、蝦夷地の函館や屋久島まで集めに行かなければ大きな建物を造れない。つまり、江戸時代17世紀の経済成長と人口増加は、資源に影響を与えました。そして資源の枯渇、環境破壊に向かいつつあった元禄期(1688~1704)の後、1730年ごろをピークに人口は増えなくなってしまった。 吉宗は1716年から、ほぼ30年将軍職に当たっていて、その間人口増加が止まってしまいます。明治150年の今と同じように、徳川幕府が始まって150年ぐらいのその時期も、ちょうど人口停滞した時期といっていいでしょう。人口が増えなくなっていることは、吉宗もたぶん意識していたと思われます。1671年には、住民台帳的なものとして、宗門人別改帳の調査が始まっていますが、それはキリシタン取り締まりが目的で、数値を幕府に上げさせて、全国の人口を数えるってことはしていない。けれども吉宗は、最初の人口調査をやらせます。初めて領地の人口がどのくらいか、報告をさせるわけです。 背景には物価の下落、デフレがありました。慶長年間(1596~1615)に金銀ができ、寛永年間(1624~44)に銭貨が鋳造されてから元禄までの間は、貨幣改鋳が行われていない。ところが元禄のとき幕府の資金が乏しくなってきたので、少しでも収入を得るためにと、質の悪い貨幣に切り替えます。その後、宝永年間(1704~11)に富士山が噴火したころまで、質は悪いが膨大な量の貨幣を出す。そのとき、短期的に物価は上がりましたが、正徳年間(1711~16)に新井白石が出てきて、良質ではない貨幣はよくないと、慶長の時代、ほぼ100年前の水準に戻しました。質の高い貨幣を造ろうとすると量を減らさなくてはならない。 こうして、貨幣数量の縮小でデフレが起きたと同時に、人口も頭打ちになったので、米に対する需要が大きくはなくなっていた。そうした二重の影響を受けたのが吉宗の時代。米がそこそこ食べられるようになり、米価がとにかく安い。ところが、米で年貢を取り、大坂の市場で売って資金を稼いで、幕府の歳入にしようとするので、幕府や武士にとっては、収入が減ってしまい困るわけです。 そこで吉宗はいろいろな策を講じて米の値を上げようとする。ところがうまくいかない。最終的には1736年に大岡越前守が言ったとされていますが、貨幣の質をちょっと悪くし、代わりに貨幣をたくさんばらまくデフレ脱却策をとるわけです。ちょうど今の日銀が、物価を上げるために、国債を大量に引き受けて、代わりに貨幣をマーケットに出したのと似たようなことをやったわけです。 その後、物価が上がりはしなかったけれども、飢饉以外はかなり淡々と安定して推移します。ほぼ80年、文政期(1818~30)まで、安定していきます。日銀が2%をめどに物価をとにかく上げようとしているのと、吉宗が四苦八苦して米価を上げようとしているのはちょうど重なる。しかもそのときは人口が停滞し、若干減少しています。そう簡単にはいえませんが、江戸と明治それぞれ150年後の状況はちょうど似ていて、参考にすることはできるんじゃないかと思いますね。