従来の豊かさとは違うがいい時代…実感できたとき、日本の人口均衡がとれる
江戸時代はどうやって人口停滞から抜け出したのか
江戸時代は宝暦(1751~64)のころに各藩で改革が進みます。ちょうど今でいう地方創生ですね。幕府と同じように財政状態が悪化しているので、だれかが命令したわけではなく、いろんなことを工夫します。藩政改革はいくつかの藩がやっていきますが、共通して目指すのは、地方で産業を発展させようということです。 吉宗もサツマイモを普及させようとしたり、その前の新井白石の時代から、中国から絹を買うことで日本から大量の銀が流出してしまうので、絹の輸入を減らそうとしていましたが、吉宗の時代はさらに積極策をとり、絹を作らせました。砂糖も同じで、オランダ人が持ってくるものを高値で買っていた。それを国産化しようとする。 もともと、大坂や京都は産業の中心地だったわけですが、ほかの藩はその技術を取り込んでよりよい絹織物、麻織物、綿製品を作ろうと主に繊維産業に取り組みます。酒、味噌、しょうゆの類の醸造業や地方の特産物を藩が主導して農民に作らせる殖産興業政策を、早いところでは18世紀の半ばにはやりました。 こうした動きは幕末になるとさらに盛んになり、同時に経済に対する考え方も変わってくる。人口が増えていない、米の生産量も頭打ちになっている。そうした状況で税を取るためにどうしたらいいか、と考えたのが田沼意次です。それまで農業中心で、製造業やサービス業からしっかりした年貢を取る仕組みはできていなかった。田沼はそうした流通や製造業からの利潤を正当に認める。財源として目をつけたわけです。 ただそのときも、今と異なり、企業会計がしっかりしたものではなく、公的に義務付けていたわけではないですから、大きい商人からそのときそのときに上納金を納めさせたり、織機一台につきいくら納めるという、外形標準課税的な仕方で年貢を取ったり、同業者の組合に入ることによって冥加金みたいなものを取り立てたり、税のとり方は確立できなかった。ただそうしたところに目をつけたことは新奇性があると思います。 けれども田沼は伝統的な農業に価値を置く主流派に負けてしまい、すぐ罷免されてしまう。松平定信の時代に全部ひっくり返されてしまいます。ただ、そういう試みがあったのは、人口が頭打ちになり、物価が下落してそこから抜け出そうとしてもがいていた時代の直後です。一見、平穏無事な社会で、一見、成長は止まったように見えて、だけれども一方では、新しい動きが出来てきている。農村を基盤とした産業発展の始まりは、おそらくその辺りにあるということだったのでしょう。社会変化のスピードは現代のほうが速いのかもしれませんが、ちょうど今もそのころと似たような状況にあるのかなという気がしています。