「ホモ・ヒストリクスは年を数える」(2)~元号の世界的位置づけ~ 2000年以上続く年の数え方
年号(元号)の歴史は2000年以上
これに対して、年号による紀年法は、2000年以上も前から、東アジアで使用され続けている紀年法である(東アジアの紀年法に関しての詳細は、拙著『歴史認識の時空』(知泉書館、2004)第2章「人は歴史的時間をいかに認識してきたか」49~116ページを参照してほしい)。 東アジアにおける最古の紀年法は、世界の多くの古代帝国と同様「即位紀年」であった。古代中国の春秋時代(前770~前403)に存在した魯国の歴史である『春秋』の紀年法は、「隠公元年」のように魯の王の即位紀年で記されている。 年号による紀年は、紀元前114年、前漢の武帝(在位前140~前87)の時代に始まった。即位からの単なる経過年数だけで年を表記するのではなく、「年になんらかの意味ある『名前』をつける方が良いのではないか」という武帝の臣下による提案が契機だったとされる。 もともと武帝は、自分の即位から最初の6年を初元とし、以後6年ごとに二元、三元、四元、五元と称していた。ところが、司馬遷の『史記』によると、役人の建議により次のように決まったとしている。その誕生の経緯を、『史記』巻12孝武本紀は次のように記している。 「年号(元)は、天の瑞祥をもって名づけるのがよろしく、1、2をもって数えるのはよくありません。最初の年号を建元といい、次は長星が現われたので元光といい、その次は郊祭で一角獣を得たので、元狩というのがよろしゅうございましょう。」(訳文は、小竹文夫・小竹武夫訳『史記』I(筑摩書房、1971)115ページ) 当該箇所の原文は「其後三年、有司言、元宣以天瑞命、不宣以一二数、一元曰建元、二元以長星曰元光、三元以郊得一角獣曰元狩云」となっている。(『史記』孝武本紀第十二) この意見に従い、武帝は即位27年(五元3年、前114)に、元鼎(3年にあたる)と年号を定め、その前の初元から四元までを改めてそれぞれ建元・元光・元朔・元狩という年号を追建(後からの建元)した。 年号はその誕生の経緯において、「即位紀年」をより洗練した形式にしたものである。年に名前をつけるという発想は、漢字文化圏以外では生まれていない。恐らくそれは、漢字が表意文字であり、二文字によってその意味を伝えることのできる視覚言語であったからではないだろうか。だから年号は、元狩のように一角獣を得たという瑞祥である重要事件を契機に命名されたり、洪武のように大いなる武功という皇帝の権威を示すものであったりと、各々の時代の様相を反映する「名乗りとしての紀年法」になることができたのである。 この「年号という紀年方法」はその後、東アジア各地に広まり、7世紀半ばまでにはベトナム・朝鮮で使用され、遅くとも7世紀半ばには日本でも使用されるようになったと考えられる。周辺民族の使用したもっとも早い年号は、匈奴系民族の国家である北漢朝(後の前趙)の劉渕が立てた年号「元煕」(304~307)である。 これ以後、東アジアで独立国家を樹立した者は、自前の年号を建てることがならわしとなった。ここで重要なのはあくまでも「年に名前をつけるという方法」が伝わっただけであって、中国の「年号」そのものを東アジア各地が使用したわけではない、という点だ。「年号そのもの」と「年号という紀年方法」とが異なることが、その後の東アジアの国際関係そのものにとって、歴史的に重要な意味を持つ。 中国では、その後、瑞祥災異による改元が少なくなり、新たに即位した皇帝がその統治理念を表明するために新年号を建てるようになった。明朝の開祖である朱元璋(在位1368~1398)は、洪武という年号だけで、その31年間の治世を通し、これ以降、一皇帝一年号となった。これを中国では「一世一元」という。 忘れてはならないのは、この「一世一元」は、即位紀年の「王名」の代わりに「意味ある雅号」を与えたのではなく、年号という紀年法における、改元の形態が変わったというそのプロセスである。つまり、「即位紀年 → 年号紀年 → 一世一元」という歴史的経緯を経て、一世一元制が誕生したのであり、洪武帝以降、皇帝をその年号によって呼ぶことが始まった。日本では、1868(慶応4)年9月8日に一世一元制を導入し、これを「元号」と名付けた。年号ではない「元号」という呼称は日本独自のものである。 『欧亜紀元合表』によると、西暦816年に東アジアに存在した唐・南詔・渤海・回鶻(ウイグルのこと)・新羅・日本の計6カ国の内、5カ国はそれぞれに独自の年号を使用している。唐は元和11年、南詔は全義11年、渤海は朱雀4年、新羅は彦昇8年、日本は弘仁7年、そして回鶻は年号ではなく「■(左に田、右に比)伽保義可汗9年」という即位紀年を採用している。干支紀年法は全てに共通していて、丙申(ヘイシン・ひのえさる)である。この年に生きていた東アジア各国のそれぞれの国民は、今自分が生きている年を、例えば日本人は、弘仁7年(丙申)と認識していたといえるだろう。(張■(王へんに黄)『欧亜紀元合表』(大安、1968)297~298ページ) ただ、現在の東アジアで、本来のシステムで年号を使用しているのは、日本だけである。中国は1949年に年号を廃止し、キリスト教紀年法を公元という名称に変えて導入した。ベトナムも韓国も1945年をもって年号を廃止し、現在ではキリスト教紀年法使用となっている。台湾では中華民国が成立した1912年を元年とする中華民国紀元を使用している。北朝鮮は、1945年以降西暦を使用してきたが、1997年9月9日に新たな紀年法として「主体」という名称の紀年法を開始し、起算年を1912年の金日成誕生年として、遡及的に使用している。 東アジアで2000年以上にわたって年を数える手段だった年号という方法が、将来、残るかどうかは日本にかかっている。 著者紹介:佐藤正幸(さとう・まさゆき)1946年甲府市生。1970年慶應義塾大学経済学部卒。同大学大学院及びケンブリッジ大学大学院で哲学と歴史を専攻。山梨大学教育学部教授などを経て、現在、山梨大学名誉教授。2005~2010年には、President of the International Commission for the History and Theory of Historiography(国際歴史学史及歴史理論学会(ICHTH)会長)を務めた。主著に『歴史認識の時空』(知泉書館、2004)、『世界史における時間』(世界史リブレット、山川出版社、2009)、共編著:The Oxford History of Historical Writing :Volume 3:1400-1800 , (Oxford University Press, 2012)など。