京都発、ニューヨーク・ストリート・ジャズを極めた男 サエキけんぞうの京都音楽グラフィティーvol.14
前にも書いたが、出町柳のジャズ喫茶「LUSH LIFE(ラッシュライフ)」には実に多くの人たちが集まる。常連さん、通りがかりのお客さん、もちろんジャズ好きもミュージシャンもいる。その中でも「この人は凄いから、話を聞いた方がいい」とマスターの茶木さんに紹介されたのが、70年代に渡米してニューヨーク在住40年以上を経て、現在は京都在住のサックス奏者・東出(あずま いづる)さんだ。80年代に一時帰国した際には、当時ジャズ・クラブだった「ラッシュ・ライフ」でジャム・セッションを統率し、京大などのジャズ研究会の学生を育てたという。「まだワン・フレーズしか吹けない学生さんを『上手やなあ!次のフレーズも練習しとき』と、ものすごい上手におだててね、吹けるようにしてくれはるんです」とは、ラッシュライフ茶木さんの言(このジャム・セッションがきっかけで、プロになったのは、八木隆幸さん<ピアニスト>、福呂和也さん<ベーシスト>など、多数いるとのこと)。
興味を惹かれた僕は、茶木さんにお願いして「ラッシュ・ライフ」で東さんと対面させていただくことにした。店に現れた東さんは、ラップを歌ってもおかしくないような、エディ・マーフィーにもちょっと似たモダンなオジサマ。ギョロっとした目が鋭くも魅力的にギラギラ光り、とにかくしゃべり始めたら止まらない。彼の人生はとてつもなく波乱万丈で、その荒波を抱えたままにジョークがジャズのアドリブのように飛び交う軽妙なオシャベリは、催眠術のように聞く者をトリコにする。恐らく東さんは、日本人として「米黒人ジャズの奥の奥の院」に肉薄した「唯一の日本人」なのではないだろうか。「さりげなくとんでもないことを言ってるな!サエキ!」と思う方はぜひこれを読んでください。 東さんの物語は16歳、1974年頃に始まる。その頃の東さんはジミ・ヘンドリックスに憧れロックギタリストを夢見る少年だった。当時、開店したばかりのライブハウス「拾得」(じっとく)に出演していた東さんのステージに若き超絶テクのギタリスト、ジョー・サトリアーニが飛び入り出演し、仲良くなった東さんはそのまま海を超えてサンフランシスコのジョーの自宅に押しかけていってしまうのだ。 「ジミヘンが好きでギターやって、頭をアフロヘアにしてたんや。真似して指輪を両手に10個して。16歳やから英語は『ディス・イズ・ア・ペン』しか喋れへんのに、偽物のストラトキャスターとちっちゃいアンプ持ってアメリカ行ったんや。高校なんかにお金使うんやったら、音楽で2、3年したらドーンってもうけたる!って、おかんをだましてお金出させたんや。頭は柔らかいうちに、アメリカに行った方がええからって」。 子供のそんな戯言を許してしまう親も親だが(きっと勢いがとてつもなく凄かったのだろう…)、結局、風光明媚なサンフランシスコのジョー・サトリアーニの家には2週間ほど居候。とはいえ東さんの本当の目的はジミ・ヘンドリックスであり、ジミヘンのアルバム・タイトルにもなったニューヨークの「エレクトリック・レディ・ランド・スタジオ」を見たかった。グレイ・ハウンド・バスに乗って大陸を横断することにする。