京都発、ニューヨーク・ストリート・ジャズを極めた男 サエキけんぞうの京都音楽グラフィティーvol.14
■チャーリー・パーカーを追いかけて
そして念願のニューヨークへーー。だがこのニューヨークで、彼の音楽志向は次第にジャズに傾いていくことになる。実はサンフランシスコ滞在時には、亡くなる直前のジャズの神様、チャールズ・ミンガス<ベース>の強力なライブを目の当たりにしたとのこと。その強烈なインパクトが少なからず東少年の未来に影響したに違いない。 70年代中盤といえば、すでにリー・リトナーやラリー・カールトン、ジェフ・ベックといったギタリストたちによる「新しいジャズ」クロス・オーバー(後のフュージョン)も大々的にスタートしていた。当時の日本のロック少年たちは一気にそれらに傾倒していったものだが、ニューヨークにいた東少年は違った。彼の地では往年のジャズ界のトップ・スターたちがまだ現役でバリバリに活動しており、東少年も本場のジャズを浴びるように聴き始めた。そして彼らの飛びっきりの生演奏を目の当たりにした多感な16歳の脳は、電気のロックから生音のジャズへと方向転換していったのだ。 実は東少年はそうした大スター達の演奏を見つつも、その視線の先では常に20年前に亡くなっていたチャーリー・パーカーの姿を追っていたという。ニューヨーク・ジャズの彼方に見えた音が、1955年にわずか34歳で亡くなったマイルス・デイヴィスの先生、モダン・ジャズの創始者といえるチャーリー・パーカーのものだったのだ。 「家で兄貴のもっとった『チャーリー・パーカー・オン・ダイヤル』の「The Famous Alto Break」に前からやられていたんや。ニューヨークではジョニー・グリフィンも見た、デクスター・ゴードンも見た、ハンク・モブレーも見た、リー・コニッツも見た、ジャッキーマクリーンも見た。けど誰もレコードのチャーリー・パーカーにはかなわへん!」。 そして東さんはチャーリーと同じ楽器、サックスを手に取ることになる。その後、観光ビザも切れて一旦日本に帰った東さんは、ジャズを習得するため、京都にできたばかりのアン・ミュージック・スクールに通うことにする。しかし一度「本場の味」を知ってしまった彼にはどうしても物足りず、再び渡米する道を選ぶ。 そんな若き東さんの才能に注目したのが、当時すでにニューヨーク在住で活動していたクニ三上さんというジャズ・ピアニストだった。東さんを見込んだ三上さんは、東さんのために100ドルをポンと払ってバリー・ハリスという第一線ミュージシャンのレッスン・プログラム(1年間のレッスン+バリーのライブをいつでも見られる)に入れてくれたのだ。バリー・ハリスは、マイルス・デイヴィス、リー・コニッツ、コールマン・ホーキンス、ソニー・ステット、リー・モーガンなどと共演歴があるバップ・ピアニストの代表的存在だ。 そこで学べるものは東さんいわく、バークリー音楽大学とかでは学べない、本物の黒人ジャズの理論だった。そして東さんは、ジャズの第一線ミュージシャンがしのぎを削る世界に一気に飛び込んでいくことになる。 (続く)