意外と知らない、人類はこれまで「睡眠」について何を考えてきたのか
私たちはなぜ眠り、起きるのか? 長い間、生物は「脳を休めるために眠る」と考えられてきたが、本当なのだろうか。 【写真】「脳がなくても眠る」って一体どういうこと!? 「脳をもたない生物ヒドラも眠る」という新発見で世界を驚かせた気鋭の研究者がはなつ極上のサイエンスミステリー『睡眠の起源』では、自身の経験と睡眠の生物学史を交えながら「睡眠と意識の謎」に迫っている。 (*本記事は金谷啓之『睡眠の起源』から抜粋・再編集したものです)
眠りと死と心
成虫になったアゲハチョウが生きられるのは、数週間だという。卵が産みつけられた後、数日経って孵化すると、脱皮をくり返しながら幼虫として1ヵ月ほどを過ごす。さらに蛹に変態して、2週間ほどを過ごすのだ。そうして1ヵ月半ほどの“下積み”生活を経た後、成虫になって空を飛べるのは、数週間。短ければ、わずか2週間だ。そんな限られた時間の中でも、アゲハチョウたちは夜にしっかり休む。わざわざ、危険を冒しながら、である。 一生のうちの貴重な時間を使って休むのは、なにもアゲハチョウだけではない。私たちヒトも、1日のうち6~8時間を睡眠に費やしている。人生のうち、20~30年を眠って過ごすのだ。 なぜ私たちは、眠るのだろう?人類は、古くから睡眠という現象に大きな興味をもってきた。 ギリシャ神話には、ヒュプノス(Hypnos)という眠りの神が存在する。ヒュプノスは優しく穏やかな性格で、人々を眠りへと誘う神だ。興味深いことに、ヒュプノスは死の神・タナトス(Thanatos)と兄弟なのである。眠りと死は近い存在なのだろうか? 「眠っている間は生きていても、死者と接している」──古代ギリシャの哲学者であるヘラクレイトスは、そんな言説を残した。眠りは、死の疑似体験だと解釈されていたのだ。起きている「生」の状態に対し、眠りに落ちて動かなくなる様子は「死」を連想させたのだろう。 眠りの神・ヒュプノスは、ニュクス(Nyx)という夜の女神から生まれた。ヒュプノスには、タナトスの他にも兄弟がいる。そのうちの一人、オネイロス(Oneiros)は、夢の神だ。さらに、ヒュプノスの息子もまた、モルペウス(Morpheus)という夢の神なのである。 眠りとは、私たちの魂が抜け出した状態であり、魂があちこちを彷徨った体験が、夢だという解釈があったという。その一方で夢は、普段住んでいる世界とは異なる、高次な世界の体験だという解釈もあった。夢の中では、神に出会い、お告げをきくことができると信じられていたのだ。睡眠は、「生」の状態から離れ、「死」に近づく状態、そして何か神妙な体験をする時間だと考えられていた。私たちは眠ることで、毎日のように現世を離れ、異世界を経験しているのだと──。 そうした迷信に縋ることなく、心理学の立場から眠りの意味に迫ろうとする試みも行われた。19世紀後半から20世紀にかけて活躍したオーストリアのジークムント・フロイトは、「精神分析学」を提唱したことで有名だ。人間の心のしくみに関して、フロイトは次のような考え方を示した。 心は、(1)意識と(2)前意識、(3)無意識という3つの要素から成り立っている。 (1)意識:私たちが、簡単に自覚することができる心。例えば、「私は今、怒っている」という自覚を伴った怒りの感情は、「意識」の一つである。 (2)前意識:普段は無自覚だが、思い出そうとしたり、注意を向けたりすることで自覚する心。例えば、心の奥底に秘めて自覚していなかった感情に、何かのきっかけ(他の誰かから指摘される等)で気づくことがある。 (3)無意識:心の奥底に隠れている抑圧された感情や願望。自覚することは、基本的に困難である。 心理的なストレスを受けたとき、人はその記憶を「(3)無意識」としてしまい込んでしまう。感情を抑圧することで、自らを守ろうとするのだ。フロイトは、このようにして抑圧された思いが、神経症の原因になると考えた。だが患者本人は、「無意識」を自覚することができていない。「無意識」に抑圧されている感情を認め、受け入れることで症状の改善につながると考えたのである。そして、「無意識」を知る手段の一つとして、夢を分析すること(「夢分析」)が有効だと唱えた。睡眠中には心が無防備な状態となり、普段抑圧されている「無意識」が夢に現れるというのだ。